Naegi

逍遥

誰だって信頼できない語り手だもん♪

良くも悪くも、私は変わっている。別に、自己評価を拗らせたわけではない。なにか動作をするにしても、簡単な応答をするにしても、だいたい想定の斜めを上をいってしまう。幼いころから、望まなくても目立ってしまう性格だった。ある時には悪意をもって攻撃された。心の中に盾があるならば、防弾でボコボコになっているだろう。歪な心はさらに曲がりくねってきた。もはや、原形に戻ることは難しい。

 

いまのコミュニティにおいては、おおむね好意的に受け止めてくれているので、生き生きと過ごしている。が、まったく枠組みの異なる人と話すと、勝手に傷ついてしまう。相手の善意や好意に寄りかかっている。ひと昔前の日本人論みたいだ。甘えとも表現することができるのかもしれない。

 

例えば、私は手先が不器用なので身なりを整えることが不得手である。時に、美容室や眉毛サロンに行くと、私の不得手っぷりに戸惑われることも多い。店員同士の談話がきこえてしまったことがある。私の挙動がおかしかったのかもしれない。私は丁寧に接しているのに、言葉や話し方などが一般的なそれとは少し違うかもしれない。

 

あなたの言葉は詩的すぎるとか、浮世離れしているとか言われたことがある。私は文学を大して読んでいないし、詩人ほど言葉を知っているわけではないので、この評価は妥当ではないと思う。が、真意はそこにはないこともわかる。ポエマーという言葉が揶揄の意味で使われるように、私は地に足をつけずに世界を見ているという。たぶん、想定と異なる言動ばかりしてしまうから。予定調和が乱されるのは、あまり好ましいことではないのかもしれない。

 

親しい人には、つねづね「一般的な会社に入るな」と言われてきた。ここで示唆するのは、銀行や大手メーカーといった企業だろう。私は就職活動において、しっかり「一般的な企業」を受けたが、時には嘲笑されることもあった。考えすぎて周囲と歩調が合わないのでは、とか、理不尽な出来事に適応できないのでは?など。たしかに、私のエントリーシートは独創性が強すぎたかもしれない。でも、ありきたりのことを書いて、通った会社に行きたいわけではなかった。

 

「あなたのエントリーシート、とても変わっていますね。変わっているとよく言われるでしょう」と言われたところに、私は入ることになった。たぶん、わたしの浮世離れしている部分を好意的に受け止めてくれた。内定者の人たちと会話をしたら、みんな各々、自分の世界を持っていることがわかって、心の底から安堵した。借り物の言葉を話す人が全然いなかった。自分の言葉を持っている人ばかりだった。換言するならば、アクの強さだが、私はアクが大好き。

 

意外とうまくいくもんである。変わっていること、アクが強いことは防御壁となる。自他境界が未確定だった幼少期は不利益ばかりだったが、ようやく日の目を見ることになる。血迷って占いに行ったとき、「あなたのその悩みは、きっといつか実を結ぶことになる。あなたの性格は、学術や芸術ですごく良い作用をもたらすよ」と言われた。壁に当たった時は、この言葉を反芻する。

 

世の中、善悪の判断をきっちりつけられることは多くなく、だいたいグレーだし、だいたいメビウスの輪のように循環している。この性格もそれで、うまく作用すればこっちのもんである。

 

ジェーン・スーのラジオ「生活は踊る」を愛聴しているのだが、その中で示唆に富むアドバイスがあった。自身の性質は、うまく手綱を握って従える必要があるのだ、という。自分の手綱を握れている人は、案外少ない。というか、自分をコントロール可能なものとして捉えるがあまり、うまくいっていない人ばかりなのである。

 

ジェーン・スーのお悩み相談は少し毛色が変わっている。相談者のメールをいわば「信頼できない語り手」として読み、質問者が無意識に表現してしまっている偏見や思い込みを明らかにするのだ。時として厳しいアドバイスが飛ぶが、その手腕に毎回舌を巻くく。テクスト分析のようなお悩み相談を聞き、自分のブログも「信頼できない語り手」として執筆していることを確認させられる。

 

酔っぱらったとき、いかに自らが「信頼できない語り手」たるかを考えた。酔っ払いはもちろん、平静を保ちながら書いた文章も、歪みを生じさせているのだ。フィクションとノンフィクションの境界は、明確ではない。この主題は、古今東西の文学者や作家が取り組んできたものだが、日常的には忘却してしまうものだ。だからこそ、自分は絶対正しい、他の人の主張は間違っている、なんて思ってしまうのである。思考の陥穽に気づけない人は多い。私もそう。

 

お盆休みを活用して、村上春樹の最新作を読んだ。(以下ネタバレを含みます)

 

ここでもやはり、フィクションと現実世界の境界を感じざるをえなかった。越境者。これは村上が反復してきた主題だが、今回特に面白いと思ったのは中年男性が現実世界・異世界のあわいにいることである。児童文学において異世界ものが多いことからわかるように、社会的制約が少ない子どもが越境者として機能することが多い。今回の作品では、社会的地位もある(あった)中年男性が越境者として、登場することだ。これをある種の脱サラ的行為としても読み取れるが、それだけでは不足がある。やはり、フィクショナルな空間はいつまでも人生につきまとうのだ、ということだ。水面に映る月のごとく、歩けばついてくるものだ。

 

4年くらい前、京都でポーランドの現代芸術を見た。たしか、京都を舞台にインスタレーション作品を展示した展覧会だった気がする。印象に残っている作品がある。それは、万華鏡のような作品だった。ポーランドの日常風景。そこにサンキャッチャーか鏡のようなものを置くと、ここではない世界が映し出される。日常風景にもフィクショナルな風景を映し出すことができるのだ!

 

当たり前といえば当たり前だが、鑑賞時は大きな衝撃を受けた。この点については、兵庫県立美術館で7月くらいまで開催されていたコレクション展がよい改題になっていた。日常生活にひそむフィクションを扱った作品群が並ぶ。冷蔵庫の扉から、粘菌類が出てくる…という作品がよかった。作者名や作品名を忘れたことが惜しまれる!

 

いつもは忘れてしまうけれど、生きている世界が胡蝶の夢なのかもしれない。私が「正気」の側って本当?断定なんて、だれもできない。夢うつつ、どちらが「こちら側」なんてないし、その境界は実は曖昧なのである。エッセイとして書いているこの文章だって、フィクションといえばフィクションなんだから。

 

 

ハレとケ。

ハレの日に対して、うまく自分の気持ちを整理できない。

 

成人式も卒業式も(修了式も)はりきって和装を選んだが、どうも型を反復するようで好きではない。粗悪な商品も多いし、下手すれば「ダサさ」を醸し出してしまうかもしれない。同様の感情を結婚式に対しても感じている。正直、結婚式は恥ずかしい。典型的な結婚式には、得も言われぬ「ダサさ」があるように思う。

 

これは私のなかでうまく言語化できていのだが、批判する意図はない。ただ、私が「ダサさ」と折り合いがつけられないのかもしれない。それだけだ。

 

成人式の前撮りで家族に「感謝の手紙」をあげるプログラムに対して、曰く言い難い抵抗感を覚えたことを覚えている。きっと、感涙必至のプログラムなのだろうが、「ダサい」という感情は打ち消せないかもしれない…。

 

ハレの日にどかんと花火を打ち上げるよりは、日常を豊かに生きる事に注力したい。とはいえ、世間的な憧れとは愛憎まじる感情があるため、袴もウェディングドレスも着たい。だから難しいのだけれど。

 

ハレの日では、型を強制される感じが好きではないのかもしれない。たしかに儀式は必要かもしれないが、日常と地続きなので、ふだんのスタイルを発露させる場として捉えたい。私が選んだ着物に対して、「あなたっぽい色」と友人が評してくれた。私は私のスタイルを守るのに必死!スタイルとか世界観とかあれば、日常をフィクショナルに染め上げることだって可能だし、デコレーションできるもんだよ。うまく折り合いつけて、頑張って日常デコってこ♪ 簡単な方法は、好きな音楽聴いて、本読んで、文章書いて、踊ることだよ!