Naegi

逍遥

物語から零れ落ちる物語

「数え切れないほど沢山の平凡なことがあった」

画家で詩人の星野富弘さんの詩、「日日草」からの引用である。「日日草」のタイトルが示唆するように、日々の暮らしとほとんどが、語るに及ばない、平凡なことである。

 

劇的という言葉を思い浮かべる。

フィクションは往々にして、急激な変化をあらわすメタファーとして用いられる。起承転結という定石のもとで繰り広げられる物語は、山があって谷がある。「オチ」があり、なんらかの物語の型に落とし込まれる。

 

しかし、日々は紋切り型に運ぶことはなく、常にカオスの状態で続く。わかりやすい展開もなければ、お決まりもない。おそらく、物語と日常生活を重ね合わせてしまうのは、こちらの解釈というか、語りの問題である。

 

久しぶりに随想でも書こうと思ったが、なかなか筆が進まない。型にはまった物語を書くのにも、問わず語りの自分語りを展開するのにも辟易し、鍵付きのTwitterアカウントに壁打ちする日々が続いた。

140字でも事足りるような、平凡な出来事や、思考ばかりに覆い尽くされているような気がして、完結した記事を書くことが億劫だった。

 

しかし、これは完全に歪んだ認識を示唆するのではないかと思う。

実際の出来事は、わかりやすいような方法で表出するわけでもないし、140字で言い尽くせるほど単純ではない。物語、というかコンテンツが氾濫し、ファスト化された世界に生きるから、そんな考えに至ったのではないか。ソーシャルメディアとの付き合いを再考しなければならない。

 

それはそうとして、私たちは「物語から零れ落ちる物語」に目を向けてはどうだろうか、と思う。わかりやすいストーリーラインではなく、綿々と続く営みを紡いだ書き物が読みたい。

 

エントリーシートなんかは、私の理想の対極にある。型があって、わかりやすい物語が要求される。私の物語を、多少歪めても、「お約束通り」書いたものが評価される。起承転結があるもの、といえば良いのだろうか。これを書くのは楽しくないし、読む方も楽しくないだろう。

 

だから、これはあくまでフィクションだと割り切って読むほかないのだ。