不幸を相対化するから苦しくなる。
5月が到来した。エリオットは4月が残酷な季節だと語ったが、個人的には5月の方が残酷な季節だと思う。休暇を挟むことによって我に帰る「間」が生じてしまう。こうした移行期は何かと不安定なものだ。
今年の春は心身ともに苦しい時期だった。週末は仕事のことを忘れて呆けていたのだが、平日はそうはいかまい。詳細は語らないが、個人の舵取りではどうも乗りこなせない大波に翻弄されていたようだ。下手したら5月連休も休日出勤の可能性があるかもしれないと身構えていたが社用携帯とPCは置いてきた。今回は有給を連休に連結させる余裕はない。連休が終わればまた怒涛の日々が始まるのだろう。
さて、全部忘れて休暇を迎えたいと思う。今日は蔵前を散歩する。クラフトマンシップ溢れた街を歩くと元気になれるから。
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散歩してきた。
本を見て、茶菓子を買い、ブレンドハーブティーを買う…などなど。Pinterest的な趣味だと思う。〇〇巡りとは堪能の対極にあるが、疲弊していると全てをスタンプラリーの如く消費してしまうのである。
でもこれをキュレーションと捉えたら?自分の世界を編集する作業とわたしは捉えている。
書店では何も本を購入しなかった。フェミニズムといった社会運動を軸にセレクトされた店だが、今のモードには合わなかった。賃金労働者ゆえに正しくない選択を取ることもある。目の前のことをこなしている身なので、社会のマクロな歪みに向き合えないでいる。なんだか重く感じちゃって。もう少しマクロな話にコミットするためにはどうすればいいのか?
疲れが滲み出る文章を書いている自覚はある。しかし、歩いている間は全然疲れを感じない。毎日体幹を鍛えているし、骨盤が後傾にならないように爪先に重心を置いて歩いているからか?全然疲れを感じなかった。
きっと太陽の下で川の音や香りをたっぷりと浴びたからなのだろう。人間も植物と一緒で太陽がないとしなびてしまうのかもしれない。回復の方法は思っているよりもずっと簡単である。
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東京は狭くて汚くて油の匂いがして時に下水の匂いで臭いけれど、いろんなクラフトマンがいて、とてもインスパイアされる。
蔵前の皮革製品の匂い、隅田川の仄かな磯の香り。香りはスイッチになる。仕事であまりにも苦しいけれど、わたしは仕事だけで生きる人ではない。気になった店に行き、素敵なプロダクトをセレクトできるのだから。消費に偏っているが、キュレーションも一つの表現の道だ。
今のわたしに必要なのは自分の足で街を歩くこと、五感で街を堪能することである。
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物事は論理だけでは決まらない。正論は全てではない。理屈っぽく頭でっかちなわたしは会社のビルの中では忘れてしまう。水槽の中の魚は水が見えない。『これは水です』というデイヴィッド・フォスター・ウォレスの本が語ることである。
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仕事に追われていると、仕事というモードでしか生きられない。ミスに執着してしまうこと、他人の顔色を窺ってしまうこと、心は晴れなくても100%の笑みを浮かべてしまうこと。ストレスなく生きるためには、「善良さ」とか「責任感」をも相対化して、呼吸しやすい体勢で生きたいのだけど、それは難しい。思い込みとか成功体験とかをアンラーンして、感じるままに導かれるように生きていくこと。たぶん、世界を散策して編集している間だけは可能な気がしている。
幸福も相対化するから嫉妬してしまう。自分にとっての幸せも不幸も絶対的なものだと信じ切ること、本当に手に入れたいものをわかってあげること。それを集めてコラージュすること。それだけなのだ。
※5月連休前の日記を編集したもの。



