Naegi

逍遥

動き回って、根差したい

Olivia DeanのDiveは秋晴れによく似合う。

てか、毎日Olivia Deanを聴いてる。世界への讃歌だよな…と思う、祈りのような旋律を聴いて街を歩くのが好き。そうやって日常をロマンティサイズしていく。だいたい、何もない一日なんて退屈すぎて耐えられないよ。

 

社会人になってから2年半の月日が流れたが、どうも現在地に対するコミットメントが薄い気がする。

なるがままに下積みみたいな仕事を続けてきたのだが、そろそろ学習曲線が寝てきたというか…圧倒的な飽きがきてしまった。新たな刺激を求め続けて生きてしまう、きっと魂は遊牧民族。結婚してマイホームを買っている会社の同期を横目に、私は旅に行きまくってる。絶対に農耕民族ではない。

 

社内での人間関係の構築は怠ってきた気がするし、学生時代からの友人との物理的な距離がそろそろボトルネックになりつつある。なんというかテクノロジーでも解決できない問題はある。Zoom飲みが死語になってるのはなぜですか。学生時代みたいに、思いつきで飲みに行けた時代が懐かしい。思いつきが許されるのは一人での行動に限る。なんという豊かな孤独。しかし、予定調和すぎて飽きがきてしまった。

 

仕事にコミットしてる気がしたが、暇つぶしみたいなところはある。根無草にならないように、根を張るように…食べること以上に、belongingを求めている気がする。社会人サークルに入って青春アゲインキラキラとかでもないが、サードプレイスの乏しさは生活を蝕む気がする。何をするにもお金のかかるトーキョーで、家と職場以外の居場所って難しい。図書館は地味に騒がしいし、大学時代のような、自分の場所という感じがない。カフェ?チリも積もれば山となります。まぁ、カフェは文庫本一冊を読むのにちょうどいいのだが…あ、お金はかかるがビジホは良い。日常の雑務から切り離してくれるから。個室を担保してくれるから。何気に高いけどドーミーインは最高。住みたいくらい。

 

毎日日記が書けなくなった。愚痴のネタも尽きた。同じ話は三度すれば飽きる。ならば、架空の東京在住のアラサー女性に自分を仮託、投影して、手記を残そうという発想に至る。現在地に対しての愛着のなさがこういう妄想に至るのであった。冒頭の話に戻るが、日常にイメージを混ぜ入れるのに音楽はいい。大学時代が甘美な記憶でいるのは音楽の力が大きい。ceroのsummer soulを聴きながら歩き回った夏の並木道の眩さは、まだ鮮明。社会人になってからは Clairoを狂ったように聴いているが、灰色の日常においてもそれは甘美な退屈さとして蘇るか、あるいはあの頃夢見ていた、憧れの生活とした蘇るかのどちらかであろう。

 

現在地…と言ったが、この数ヶ月は単なる私的な旅行のために地球を南北に横断していた。北極点を超え、赤道を超え。降り立った瞬間に感じる土地の匂いが好きだ。北国に降り立った瞬間に香り立つ白樺の匂い、南国に降り立った瞬間のプルメリアの匂い。光もそれぞれ緯度に応じて角度が異なるので面白かった。北国は昼間というのにやや陰っていたし、南国は強烈な光が差し込んでいた。なんというか本当に地球って球体だったんだなということを感じる。飛行機でひとっ飛びできる現代においては、簡単に地球の動きを感じることができるのだ。

 

とはいえ、日常の大半を過ごす土地が、あまりにもつまらなすぎる。てか農耕型の人間ばっかり住んでる(比喩です)場所にわたしのような綿毛型の人間がフィットするわけない‼️と思いつつ、やっぱり仕事って生活が人質に取られてると思う。働き先に対する愛着はあるし、理念に対しては心の底から共感してるし、ある種のbelongはあるんですけどね。ほんとうに素晴らしい場所で働かせていただかせている。予定調和すぎるんだ日常が‼️日常の範囲内で動きなさい、わたし‼️と鼓舞したい。旅とかでも補填できない日常の空虚さって、ある。

 

考えないための考え

常時リアクション人間やめたい。目にうつる全てのことはメッセージ。視界の全てにトリガーがある感じ、さすがに疲れていませんか。


刺激に即時対応するのはサスティナブルじゃない。マジで。ショート動画、YouTube、街の広告、ニュース、クレーム。平凡な一日を振り返っても、景色に刺激が織り込まれすぎている。反応することは想定範囲内、だから作者の意図どおりの解釈を解説するだけの論文は書くなと指導教員に厳しく指導された。


カルビーの色彩をなくしたパッケージをスーパーマーケットのカゴに入れた瞬間、周りのパッケージの色彩に気付かされた。ビビッドなパッケージも背景として後景に退いていた。しかし、世界は実は鮮やかすぎました。失われた色彩を求めて。失われた色彩によって、包装の彩度を知る。全てのプロダクトはデザインされたものであるということを、往々にして忘れる。背景と化したものには思考は至らない。認知資源、大事大事〜♩おんなじ服を毎日着るのは合理的だったというアレ。

 


毎日いろいろあって大変な時期は毎日千字程度の日記を書いていた。そのあとは暇と退屈を手懐けられず、日記は書けなかった。インスタントな何かに吸われていた。刺激は飽和すると退屈になるから。

 


それはそうとして、暇と退屈にはGiant Stepの目まぐるしい転調が効く。退屈なときはコルトレーンを聴こう!


ちなみにコルトレーンは狙ってこれをやってるので、即興的な転換ではない。やっぱり型があっての型破り。ちゃんと理論は持っておきたい。そうすれば自由になれるはず。

 

緻密な即興があればいいのかもしれない。

シュルレアリスムみたいに、既存の概念を並べてみるとかね♩

ハンズフリーの哲学

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先月行ったソットサス展。アーティゾンは光の使い方が上手い。

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心の中に湧いてくる気持ちって、霞のように消えていくのだと思う。手が空いている時間ってなかなかないじゃん?物理的に。いつもなんらかのデバイスを扱っているし、ハンディーに情報を得られるから、内面に注意がいかない。見ないから無理が効いてしまう。いつも手は塞がっている。

自分の気持ちと向き合う時間が入浴くらいしかない。夏はスキップしがちなので、調子が悪いのも納得である。リルケがいうように、やはり何か文章を書いたりするには自分の心を見なければいけないし、いつも何かを手に持っている時代において、まずは手を離して…おくことが必要なのかも。

 

でもね、自分と向き合うことは大事!そんなのわかっているが、向き合うとだいたいは悪い方向に行く。コーチングとか1on1が適切になされていれば話は別か?と思うのだが、なかなかそうはいかない。AIには限界があるし、生身の人間との出会いもなかなか運要素が強い。もう少し、ちゃんと、同じページで会話をさせてくれ…と思うのだが、いつもチューニングがうまくいかない。言葉の数が多いってだけで、なんとなく圧の強さを感じられたり、気の強さを感じ取られたりで、何らかのタグづけがなされて、うん、あなたは気にしない人よね^_^気合いで乗り越えてくれるよね^_^と、生身の人間であることを平気で忘れ去られるのが社会。モードの変更はするけれども、わたしはいつだってわたしという簡単な事実を、いとも簡単に忘れてしまうものなのだ。こわいこわい。クレーム処理ねぇ、やっぱり遅効性で効いてきますよ。ちゃんと心は傷ついてる。

 

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仕事がようやくひと段落したけど、神経は休まらず。かなり仕事が思考を侵食している感じがする。

昔は全てキツかったビジネス全般の話についても、ものによっては面白いと感じられるけど、それはさておき、休めなくない?みんなどうやって休んでるんですか?

 

戦略としての休息術とかの本をたくさん読んできたけれど、根本的な方法はスマホの電源を切って、夜は日付が変わる前に寝て、朝はすぐベットから離れる、光を取り入れるとか、エアコンの効いた室内にずっといないとか、自炊してちゃんと栄養バランスのよい食事を摂るとか、そもそも無理しないとか、人の期待に応えすぎないとか、そんな単純なことだと思うが、物事が過剰に複雑化した現代においては貴重な情報と化している。目新しさばかりが求められてるから、ありきたり(でも大事なこと)は忘れられてるのかも。みんなは知らない、カンタン休息術みたいなtipsじみたものより、普遍の事実として早く寝る!ご飯はゆっくり噛んで食べる!とかをちゃんと受け入れられれようになりたいね。土台があるからtipsはうまく作用するのであって。

 

 

パラドックスだと思う。簡単なことを忘れて難しく考えて、結局欲しい情報は簡潔で明快なことだ。それを難しくして難しく変換された情報を難しく理解して簡単に落とし込むのが常。情報の氾濫原から離れるとか云々以前に、損しないように複雑に考えるとかそういうことをやめて、簡単に考えて簡単に行動できれば一番楽なのになと思う。

 

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ソットサスはシンプルかつ大胆な構図をとる。原色が眩しい。まぁこれは美術展のビジュアルであって作品それ自体ではないのだけど笑

 

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瀧口修造はそれこそ難解な美術論を書く批評家だと思っていたけれど、影響を受けた美術はかなりあって、ただ批評するだけではなく創作する人だったらしい。これは知らなかった。富山県立美術館のコレクションを見て、蒐集家なのかなと思っていたが、ちゃんとキュレーションして、自分の創作に落とし込んでいたらしい。系譜を辿って、新しいものを生み出す。そういう人でありたい。

 

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急に思い立って鹿児島に行ってきた。

行きたいと思ったところに飛ぶ。意外にこれが癒しだったりする。家に引きこもっても休めないので。

移動型の休息もあると思う。

 

仙巌園の後ろに見える山々。全く隙間がない。南国の植生は密度がすごい。この辺については、梨木香歩がエッセイで書いてた気がする。ボルヘスの文学の密度がすごいのは、熱帯の植生になる影響があるからだ、と。ランドスケープと文学を横断する研究を今更ながらしてみたい。世界を旅するように文学を読みたいですね。

 

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労働によってまともな生活習慣が担保されてるし、社会との接点もちゃんとあるので精神的な安寧はある。(もちろん経済的な要素もかなり大きい。)

 

が、気づけば自分の船にオールがないように感じる。考えるべきことを考えていない。これは仕事によるものなのか、スマホのせいなのかわからないが、自分の時間を生きるということが歳を重ねるごとに下手になっている。生成AIとの終わることなき対話もある種の労働になっているしね。

 

 

新国立美術館で2024年に開催された、遠距離現在展において、ドイツのアーティストがステートしていたけれどSNSって実は搾取だよねということであった。

 

いいものをSNSに載せることは宣伝になるから結局は労働である、と。ブランド品のバッグ、ラグジュアリーホテル…あれはステータスを誇示するように見えて実は労働なのだという。

 

インスタのフィードを見て終わることなきスワイプをすることも労働(?)その作品は、現代社会を終わりなきコースターに見立てていたが実際そうなのかもしれない。気づけば自分の創造性とかはないものだと思い込んでるし。これは別に賃金労働だけじゃなくて、常に労働してしまう私たちに警鐘を鳴らしてるかも。どうやったら休めるのでしょうか…。 

 

仕事において、グリップという言葉を頻繁に使うが、だからわたしはしんどいんだろうな〜って思う。仕事後もグリップして思考が堂々巡りだもん!

 

まぁ、でもやっぱり手を動かすのっていい、やっぱり文章を書いているときはいつも心が平穏でいられる。泡のように消えてしまいそうな感情ってやっぱり、文字にして残しておきたいよね。手が塞がってたら何もできないんだから、ちゃんと手は開けておきたいよねー!掃除も、料理もスマホ片手には難しいから。

 

手を離すと書いて手放す…というのはさすがに面白くない駄洒落かもしれないが。

 

 

ライフハックとしてのキュレーション

不幸を相対化するから苦しくなる。

 

5月が到来した。エリオットは4月が残酷な季節だと語ったが、個人的には5月の方が残酷な季節だと思う。休暇を挟むことによって我に帰る「間」が生じてしまう。こうした移行期は何かと不安定なものだ。


今年の春は心身ともに苦しい時期だった。週末は仕事のことを忘れて呆けていたのだが、平日はそうはいかまい。詳細は語らないが、個人の舵取りではどうも乗りこなせない大波に翻弄されていたようだ。下手したら5月連休も休日出勤の可能性があるかもしれないと身構えていたが社用携帯とPCは置いてきた。今回は有給を連休に連結させる余裕はない。連休が終わればまた怒涛の日々が始まるのだろう。


さて、全部忘れて休暇を迎えたいと思う。今日は蔵前を散歩する。クラフトマンシップ溢れた街を歩くと元気になれるから。 


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散歩してきた。


本を見て、茶菓子を買い、ブレンドハーブティーを買う…などなど。Pinterest的な趣味だと思う。〇〇巡りとは堪能の対極にあるが、疲弊していると全てをスタンプラリーの如く消費してしまうのである。

でもこれをキュレーションと捉えたら?自分の世界を編集する作業とわたしは捉えている。

 

書店では何も本を購入しなかった。フェミニズムといった社会運動を軸にセレクトされた店だが、今のモードには合わなかった。賃金労働者ゆえに正しくない選択を取ることもある。目の前のことをこなしている身なので、社会のマクロな歪みに向き合えないでいる。なんだか重く感じちゃって。もう少しマクロな話にコミットするためにはどうすればいいのか?

 


疲れが滲み出る文章を書いている自覚はある。しかし、歩いている間は全然疲れを感じない。毎日体幹を鍛えているし、骨盤が後傾にならないように爪先に重心を置いて歩いているからか?全然疲れを感じなかった。

 


きっと太陽の下で川の音や香りをたっぷりと浴びたからなのだろう。人間も植物と一緒で太陽がないとしなびてしまうのかもしれない。回復の方法は思っているよりもずっと簡単である。

 


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東京は狭くて汚くて油の匂いがして時に下水の匂いで臭いけれど、いろんなクラフトマンがいて、とてもインスパイアされる。

 

蔵前の皮革製品の匂い、隅田川の仄かな磯の香り。香りはスイッチになる。仕事であまりにも苦しいけれど、わたしは仕事だけで生きる人ではない。気になった店に行き、素敵なプロダクトをセレクトできるのだから。消費に偏っているが、キュレーションも一つの表現の道だ。

 


今のわたしに必要なのは自分の足で街を歩くこと、五感で街を堪能することである。

 

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物事は論理だけでは決まらない。正論は全てではない。理屈っぽく頭でっかちなわたしは会社のビルの中では忘れてしまう。水槽の中の魚は水が見えない。『これは水です』というデイヴィッド・フォスター・ウォレスの本が語ることである。

 

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仕事に追われていると、仕事というモードでしか生きられない。ミスに執着してしまうこと、他人の顔色を窺ってしまうこと、心は晴れなくても100%の笑みを浮かべてしまうこと。ストレスなく生きるためには、「善良さ」とか「責任感」をも相対化して、呼吸しやすい体勢で生きたいのだけど、それは難しい。思い込みとか成功体験とかをアンラーンして、感じるままに導かれるように生きていくこと。たぶん、世界を散策して編集している間だけは可能な気がしている。

 


幸福も相対化するから嫉妬してしまう。自分にとっての幸せも不幸も絶対的なものだと信じ切ること、本当に手に入れたいものをわかってあげること。それを集めてコラージュすること。それだけなのだ。

 

 

※5月連休前の日記を編集したもの。

本当はそうじゃない、そうじゃないなら本当は?

愚痴は尽きない。しかし、それはおもろくはない。学生時代の友人とのLINEでひたすらネットミームを繰り出す会話をしてはっとした。普段から正しさばかりを追求しすぎている。友人たちとミームの再現をしてゲラゲラ笑っていたときが本当の自分なのではないか?と今更ながら気づく。

 

そして、物事は正論で決定されない。これは新入社員がマストで覚えるべき法則。良いか悪いかは別として、組織の力学は歪です。人文学を学び、関係性の非対称性に抗うことを是としていた身からすると、理解するのは2年はかかりました。大学がwhyからのhow/whatを重んじる場所だとすれば、会社はwhoからのwhat、気づいたらdoneになっている。往々にしてhowもすっ飛ばされて、〇〇をしたとすることに重きを置く場所。そこに「私」が介在する隙はあるか?答えは明瞭であろう。

 

わたしの思う正解はともかくとして、一般的な正論をも通用しない場面は多々あるので、雑に要約するとネガティブケイパビリティを持っておくとよいのかもしれない。仕事で不明瞭さを残さない人は優秀だと思うが、明瞭さを追い求めすぎているひとは総じて心を病んでしまっている。だから、陰翳礼讃マインドで曖昧さをほどよく保持しておきたいところである。

 

だから社員証をぶら下げている間は正しさをルールブックとして戦うのは燃費が悪い。毎日日記をつけているが読み返すに堪えない文章ばかりでつまらなさに飽きる。ジャーナリングは最近のトレンドだけど、書きすぎることで感情が濃縮されるという弊害もある。怒りとか憎しみとかの負の感情は特にそう。さっと書き出して、走って忘れるとか、そういうのが一番いいと学んだ。ぐずる子供にかわいそうだね、つらいよねと寄り添うより、あ!あそこに風船飛んでる!と視点をずらしてあげるほうが、立ち直れるように。わたしが仕事で参っていたときに、花見に誘ってくれた同期には感謝している。辛いのか、じゃあ花を見ようと声をかけてくれた。こういう愛をしっかり受け止めて、感謝できるようになるためには、負の感情に引っ張られないようにすること、視点ずらしを意識することを心がけたい。

 

逆張りばかり、じゃあ何が言いたい?と聞かれても答えは出てこなかった。抵抗や逆張りも大事だけど、価値観のコアにあるもの、積み上げていきたいもの、守りたいものを言ってあげたほうがいいのではないかと思う。怒りの背後には本音が隠れているから。

 

会社員になってからの成果物(ブログ、日記、その他まとまった文章)は主題が単一でおもしろくないことはわかっていた。それは逆張りばかりしているから、労働の抵抗として文章を書きたい、その結論は尽きていたから。じゃあ何が書きたい?と言われたら言葉が出なかったから。

 

書いていないが、社会人になってもちゃんとブラキストン線を超えて北海道に行っているし、美術展も行っているし、本とポッドキャストを吸収できている。働き出しても情報の摂取は続けられている。ででも、それらをスタンプラリーみたいに消化していたのかもしれない。消費を義務として捉えているのかもしれない。

 

AIに文章を見てもらったら、あなたは優等生になろうとする傾向がある、綺麗にまとめすぎ、世界はこんなに単純じゃないと一蹴されてしまった。(辛口でフィードバックしてほしいとの要望を送っている。)整合性を気にして綺麗にまとめることはある種の社会サバイバルスキルかもしれないけど、それを内面化したら途端につまらなくなる!!!!!!!面白くない理屈を内面にいれるな!!!!!という叫びをちゃんと残しつつ、働いている間はもっともらしく、何卒よろしくお願い申し上げるのである!!!!忙しないね。人間の中にスイッチは何個も必要なのかも。

 

自由とアンコントローラブルさ

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入社してから桜を見たのが3回目、したがって社会人3年目。実働期間と社歴年数が1年差があるので、桜を見た回数を基準としたい。

 

2年目も終わった。ここのところ、キャパを超過している瞬間が多々あった。繁忙期はアドレナリンでやたらと大口を叩きがちだが、ふとした瞬間に涙が出ることがある。キツイことを言われると悲しいし悔しいし、強がっていても感情は湧き出てしまう。泣きながら帰る日もある。今年の課題は鎧を脱ぐ練習である。腹の底から声を出すこと、わざとらしく笑うことをやめる。メールボックスやチャットへの執念から解放される。

 

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新入社員はみな気が張っている。不快にならないコミュニケーション、笑顔、丁寧さ、オープンさ。慣れている人間にとっては、それが繕わざるを得ない所作であることは自明なので、同情を覚えてしまう。しかし、慣れない場所で自我が発露できないのは当然なので、少しでも心理的な負荷を下がることができたらいいなと思う。というわけでこの場で2年間の学びを一つ述べていきたいと思う。

 

主語が自分でないことは、枷でもでもありチャンスでもある。

 

結論、会社員でいる時は主語を自分とすることはご法度である。人員配置や意思決定はわたしという主体性よりも組織としての妥当性や効率性を重要視する。個人の意思に反して事が動くということを、体感的に理解するのはわたしは2年を要してしまった。仕事と書いてりふじんと読む側面はどうしても存在するのである。これとどう折り合いをつければいいのか、整理していこう。

 

私の大好きな、オーディション番組を一例として挙げる。デビューまでの軌跡を、困難を克服しながらも成長していくさまを描いているように見えて実際のところは違う。本人の努力では太刀打ちできない天性のチャームが最終的な決定打となる事も往々にしてある。

 

遠回りしたが、仕事でも同じようなことが発生する。「私」がどれほど努力を重ねたとしても、アウトプットの匙加減次第で天国にも地獄にもなりうるし、運という要素はかなり大きい。採算性の大きい事業にコミットできるかも運。評価者に好感を持たれるかも運。だから評価も運。そう考えれば仕事では自分が主語じゃないのだなということがわかるでしょう。

 

しかし、主語が自分ではないことはチャンスでもある。往々にして適度なノイズは人生を彩るが、仕事をしていると求めなくともノイズが入るのだ。情報過多なこの世の中で、自分が選べると思い込まされているので、選ぶことの重大さばかりを考えたしまうが、実のところ選ぶ余地のないところに思考が生まれてしまうのではないでしょうか。アスファルトの隙間に落下した種子のように。私のケースでいうと、社会人になってから一日千文字の日記を書く事が可能となった。これほどまでに言葉が湧くのは、自分では避けてしまうような、不可避のノイズがたくさんあるから。理解しがたい状況に置かれると、自らの前提や思い込みを見直すことになる。それは最適化された世界には程遠く、生の実感を感じる瞬間でもあるのだ!

 

程度は見極めた方がいいとは思うが、翻弄されることをも楽しんだ方がいいのかもしれない。いろいろな感情を味わって、葛藤してみてください。仕事での主語は自分ではないが、外圧によって自分の思い込みが取り払われるのは良いことだと思う。逆説的だが、コントロールできない領域でこそ、自分を取り戻す一歩を踏み出せるのである。

 

ちなみに実践的なことをいえば、コントロール可能なこととコントロール不可なものをは早めに見切りをつけた方がいい。組織の理屈は肌感に則していないこともあるし、他者を変えるのは容易ではない。だからこそ、自分だけで完結するような作業やスケジューリングなどの可変的な部分にコミットすることは実のところかなり有用なことである。

 

また、主語を自分にしないと述べたが、自分の感覚を押し付けないことも重要である。これはジェーン・スーがTBSラジオ「生活は踊る」で述べたことの受け売りなのだが、この指摘はかなり本質的だと思ったので引用した。相手が不快になるから、とか、良かれと思って…とかは相手のためのように見えてかなり自分本位な行動なのであるらしい。身につまされる指摘だった。

 

他者と働くのってある程度の困難が内包されているのだなと思う。全員異なる基準や前提を持っていて、それを擦り合わせないといけないのだから。仕事が理不尽に感じるのは、そうした差異と対峙するから仕事の「正しさ」は内容によっては個人差がある場合も存在するため、自分の思い込みをメタ認知するといいのではないかと思う。

 

とはいえ、新入社員の最重要命題はサバイバルである。新入社員の失敗は不慣れさに起因するので、コントロール可能なところ。落ち込みつつも、自分の中で事件にしない練習を重ねよう。ナレッジマネジメントがうまくいかないことも多いので、適度に原因を外にも置いてみよう。知らないことは知り得ない、知らないことは質問できないのだから!暗黙知やパワーバランスが絡み合っていて言語化されていないことも多いので、慣れで解決できます。

 

鎧を脱ぐ宣言をしたのもコントローラブルな領域を広げたいから。この2年間で後回しにした休息や読書の時間も実はコントロール可能な領域にあることに、最近薄々と気づいてきた。境界線をうまく引くこと。考えない方がいいことに境界線を引くこと。そう、主語は自分ではないが、人生の舵取り主としての自分は売り渡さないぞという所存でいなくちゃ!社会人なりたて論 基礎編は積み上がったが、応用編はこれからということだろうか。自分を主語にできないことに気づいてからの、実践がまだ弱いから。それはおいおい文字にして経過を残していこう。

 

社会人という言葉を毛嫌いしていた学生時代には信じられないくらい生き生きと思考できているし、適度な翻弄っていいのかもしれないね、いやそれでもオールは手放さないよ。そうはいっても船頭は常に自分という心意気は大事です。

 

 

日記を書く習慣/ 消費と労働

10月の終わり頃から毎日、日記を書いている。とてもインターネットに公開できないような感情の唸りを書き連ねている。仕事で荒れていた時は毎日五千字くらいの日記を書いていて、日記を書くことで逆に疲れてしまうこともあった。わたしが理想と思い込んでいる状態からかけ離れている職場(それは理想であって実際には存在しないイデアなのかもしれない、自然状態は理不尽で歪だとも考え始めたころあい)だが、大義名分自体はかなりフィットしていること、仕事は多いが働きやすさが随一であることを踏まえると離職という発想には至らない。興味本位で転職エージェントに登録してみたものの、結局飼い慣らされる場所が変わるだけなのでは?と冷笑して終わるだけである。YouTubeを見ていても、労働者の不満に応答するようなキャッチコピーばかり。仕事自体が歪なものだから、不満は絶えないはずだ。巧妙なシステムだなと思う。不満を燃やして高年収へ。綺麗な物語だが、本当に幸せになれるのだろうか。軸足が定まっていないと結局満足はできない。わたしのモットーは、全ての決定は内発的なものであるべきという考えだが、サブリミナル的に自分の意思決定に影響を与えているかも。これだけ情報過多の世の中で独立して意思決定を行うことは困難だろうけど。

 

東京は広告都市である。至る所に資本主義とルッキズムの香り漂う広告ばかり。函館に行った帰りに友人たちと嘆いたものだ。羽田に着くやいなや、コンサルだとか脱毛だとかそういう文字が躍り出る。誘惑もたくさんある。週末は友人とカフェ、たまにライブも行く、本も三宅香帆ばりに爆買いしたい、年に一回はヨーロッパに行きたい。そんな理想を掲げていたら破産してしまう。実際は削りに削っているのが、わたしのInstagramのログを見てみると、消費!消費!消費!の連鎖なのである。なんのために働いているのか、目的を見失いそうになる。大抵、疲れている時はちょっとした浪費に走る。お菓子を買ったり、洋服を買ったり。普段は一気に買愛ようにしているので。ちょっとした支出が増えるのは疲労の証拠。判断の回数を減らしたいが、仕事をしているとそういうわけにもいかない。

 

結局何がほしいのだろうか。しばしばこの問いに直面する。他人の欲望に欲望するというけれど、SNSは欲望を拡張する装置だなとしばしば感じる。Xをやめただけでもその効果は体感できる。インスタグラムは土日限定で見ているが、それでもインスタグラムを開けばほしいものは山のように出てくるし、自分が欲しいものを真に理解する必要がある時代だと思う。それはその場しのぎの欲望なのか、それとも長く使う覚悟はあるか?ストレスが高まった時こそ浪費に走りやすいから、軸が必要なのである。

 

休日なのに休まらないのは消費という行為によるのかもしれない。消費は選択の連続である。認知負荷を下げるためにも、選択肢を広げないことも大事なのかもしれない。可能性はあるようでない。瞬時的には一つのことにしか没頭できない。有限性を自覚した時こそ、人生は輝くものである。

 

時間を忘れて友人と語り合っていた学生時代のひとときが忘れられない。そうしたものは不可逆な気がする。わたしの時間は勤怠管理システムで管理され切り売りされる。難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』は良い本だった。プロジェクトが「わるい」時間を生むと指摘していた。詰まるところ、仕事のほとんどがプロジェクト的時間である。人為的に設定された締め切りに間に合うように仕事を進めるが、いつのまにか生活全てがプロジェクト的になっていることに気づく。小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』でも論じられていたが、クロノス的時間とカイロス的時間があって、カイロス的時間が近代的な時間管理において等閑視されているのだと思う。わたしの生活を振り返ってみても、カイロス的時間は皆無に等しい。週末もジムに出掛け、買い物を完遂させて、溜まった家事を片付けて、ご飯を食べる。これらも小さなプロジェクトであり、休日も何かを完遂させねばと捲し立てられるばかり。どうすれば解決できるのか。週休を3日にすることしか思いつかないけどね。時間が欲しい。

 

三宅香帆さんがここまで人気を博していることを鑑みると、労働者はみな物事の根源に迫った人文学に多少なりとも関心をよせていて、また労働に明け暮れる生活に疑念を呈しているのである。これは希望だと思う。生活にノイズを。水面に石を。主体性を獲得したい。舵を取りたい。