Naegi

逍遥

ライフハックとしてのキュレーション

不幸を相対化するから苦しくなる。

 

5月が到来した。エリオットは4月が残酷な季節だと語ったが、個人的には5月の方が残酷な季節だと思う。休暇を挟むことによって我に帰る「間」が生じてしまう。こうした移行期は何かと不安定なものだ。


今年の春は心身ともに苦しい時期だった。週末は仕事のことを忘れて呆けていたのだが、平日はそうはいかまい。詳細は語らないが、個人の舵取りではどうも乗りこなせない大波に翻弄されていたようだ。下手したら5月連休も休日出勤の可能性があるかもしれないと身構えていたが社用携帯とPCは置いてきた。今回は有給を連休に連結させる余裕はない。連休が終わればまた怒涛の日々が始まるのだろう。


さて、全部忘れて休暇を迎えたいと思う。今日は蔵前を散歩する。クラフトマンシップ溢れた街を歩くと元気になれるから。 


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散歩してきた。


本を見て、茶菓子を買い、ブレンドハーブティーを買う…などなど。Pinterest的な趣味だと思う。〇〇巡りとは堪能の対極にあるが、疲弊していると全てをスタンプラリーの如く消費してしまうのである。

でもこれをキュレーションと捉えたら?自分の世界を編集する作業とわたしは捉えている。

 

書店では何も本を購入しなかった。フェミニズムといった社会運動を軸にセレクトされた店だが、今のモードには合わなかった。賃金労働者ゆえに正しくない選択を取ることもある。目の前のことをこなしている身なので、社会のマクロな歪みに向き合えないでいる。なんだか重く感じちゃって。もう少しマクロな話にコミットするためにはどうすればいいのか?

 


疲れが滲み出る文章を書いている自覚はある。しかし、歩いている間は全然疲れを感じない。毎日体幹を鍛えているし、骨盤が後傾にならないように爪先に重心を置いて歩いているからか?全然疲れを感じなかった。

 


きっと太陽の下で川の音や香りをたっぷりと浴びたからなのだろう。人間も植物と一緒で太陽がないとしなびてしまうのかもしれない。回復の方法は思っているよりもずっと簡単である。

 


東京は狭くて汚くて油の匂いがして時に下水の匂いで臭いけれど、いろんなクラフトマンがいて、とてもインスパイアされる。

 

蔵前の皮革製品の匂い、隅田川の仄かな磯の香り。香りはスイッチになる。仕事であまりにも苦しいけれど、わたしは仕事だけで生きる人ではない。気になった店に行き、素敵なプロダクトをセレクトできるのだから。消費に偏っているが、キュレーションも一つの表現の道だ。

 


今のわたしに必要なのは自分の足で街を歩くこと、五感で街を堪能することである。

 

物事は論理だけでは決まらない。正論は全てではない。理屈っぽく頭でっかちなわたしは会社のビルの中では忘れてしまう。水槽の中の魚は水が見えない。『これは水です』というデイヴィッド・フォスター・ウォレスの本が語ることである。

 


仕事に追われていると、仕事というモードでしか生きられない。ミスに執着してしまうこと、他人の顔色を窺ってしまうこと、心は晴れなくても100%の笑みを浮かべてしまうこと。ストレスなく生きるためには、「善良さ」とか「責任感」をも相対化して、呼吸しやすい体勢で生きたいのだけど、それは難しい。思い込みとか成功体験とかをアンラーンして、感じるままに導かれるように生きていくこと。たぶん、世界を散策して編集している間だけは可能な気がしている。

 


幸福も相対化するから嫉妬してしまう。自分にとっての幸せも不幸も絶対的なものだと信じ切ること、本当に手に入れたいものをわかってあげること。それを集めてコラージュすること。それだけなのだ。

 

 

※5月連休前の日記を編集したもの。

本当はそうじゃない、そうじゃないなら本当は?

愚痴は尽きない。しかし、それはおもろくはない。学生時代の友人とのLINEでひたすらネットミームを繰り出す会話をしてはっとした。普段から正しさばかりを追求しすぎている。友人たちとミームの再現をしてゲラゲラ笑っていたときが本当の自分なのではないか?と今更ながら気づく。

 

そして、物事は正論で決定されない。これは新入社員がマストで覚えるべき法則。良いか悪いかは別として、組織の力学は歪です。人文学を学び、関係性の非対称性に抗うことを是としていた身からすると、理解するのは2年はかかりました。大学がwhyからのhow/whatを重んじる場所だとすれば、会社はwhoからのwhat、気づいたらdoneになっている。往々にしてhowもすっ飛ばされて、〇〇をしたとすることに重きを置く場所。そこに「私」が介在する隙はあるか?答えは明瞭であろう。

 

わたしの思う正解はともかくとして、一般的な正論をも通用しない場面は多々あるので、雑に要約するとネガティブケイパビリティを持っておくとよいのかもしれない。仕事で不明瞭さを残さない人は優秀だと思うが、明瞭さを追い求めすぎているひとは総じて心を病んでしまっている。だから、陰翳礼讃マインドで曖昧さをほどよく保持しておきたいところである。

 

だから社員証をぶら下げている間は正しさをルールブックとして戦うのは燃費が悪い。毎日日記をつけているが読み返すに堪えない文章ばかりでつまらなさに飽きる。ジャーナリングは最近のトレンドだけど、書きすぎることで感情が濃縮されるという弊害もある。怒りとか憎しみとかの負の感情は特にそう。さっと書き出して、走って忘れるとか、そういうのが一番いいと学んだ。ぐずる子供にかわいそうだね、つらいよねと寄り添うより、あ!あそこに風船飛んでる!と視点をずらしてあげるほうが、立ち直れるように。わたしが仕事で参っていたときに、花見に誘ってくれた同期には感謝している。辛いのか、じゃあ花を見ようと声をかけてくれた。こういう愛をしっかり受け止めて、感謝できるようになるためには、負の感情に引っ張られないようにすること、視点ずらしを意識することを心がけたい。

 

逆張りばかり、じゃあ何が言いたい?と聞かれても答えは出てこなかった。抵抗や逆張りも大事だけど、価値観のコアにあるもの、積み上げていきたいもの、守りたいものを言ってあげたほうがいいのではないかと思う。怒りの背後には本音が隠れているから。

 

会社員になってからの成果物(ブログ、日記、その他まとまった文章)は主題が単一でおもしろくないことはわかっていた。それは逆張りばかりしているから、労働の抵抗として文章を書きたい、その結論は尽きていたから。じゃあ何が書きたい?と言われたら言葉が出なかったから。

 

書いていないが、社会人になってもちゃんとブラキストン線を超えて北海道に行っているし、美術展も行っているし、本とポッドキャストを吸収できている。働き出しても情報の摂取は続けられている。ででも、それらをスタンプラリーみたいに消化していたのかもしれない。消費を義務として捉えているのかもしれない。

 

AIに文章を見てもらったら、あなたは優等生になろうとする傾向がある、綺麗にまとめすぎ、世界はこんなに単純じゃないと一蹴されてしまった。(辛口でフィードバックしてほしいとの要望を送っている。)整合性を気にして綺麗にまとめることはある種の社会サバイバルスキルかもしれないけど、それを内面化したら途端につまらなくなる!!!!!!!面白くない理屈を内面にいれるな!!!!!という叫びをちゃんと残しつつ、働いている間はもっともらしく、何卒よろしくお願い申し上げるのである!!!!忙しないね。人間の中にスイッチは何個も必要なのかも。

 

自由とアンコントローラブルさ

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入社してから桜を見たのが3回目、したがって社会人3年目。実働期間と社歴年数が1年差があるので、桜を見た回数を基準としたい。

 

2年目も終わった。ここのところ、キャパを超過している瞬間が多々あった。繁忙期はアドレナリンでやたらと大口を叩きがちだが、ふとした瞬間に涙が出ることがある。キツイことを言われると悲しいし悔しいし、強がっていても感情は湧き出てしまう。泣きながら帰る日もある。今年の課題は鎧を脱ぐ練習である。腹の底から声を出すこと、わざとらしく笑うことをやめる。メールボックスやチャットへの執念から解放される。

 

🌸

新入社員はみな気が張っている。不快にならないコミュニケーション、笑顔、丁寧さ、オープンさ。慣れている人間にとっては、それが繕わざるを得ない所作であることは自明なので、同情を覚えてしまう。しかし、慣れない場所で自我が発露できないのは当然なので、少しでも心理的な負荷を下がることができたらいいなと思う。というわけでこの場で2年間の学びを一つ述べていきたいと思う。

 

主語が自分でないことは、枷でもでもありチャンスでもある。

 

結論、会社員でいる時は主語を自分とすることはご法度である。人員配置や意思決定はわたしという主体性よりも組織としての妥当性や効率性を重要視する。個人の意思に反して事が動くということを、体感的に理解するのはわたしは2年を要してしまった。仕事と書いてりふじんと読む側面はどうしても存在するのである。これとどう折り合いをつければいいのか、整理していこう。

 

私の大好きな、オーディション番組を一例として挙げる。デビューまでの軌跡を、困難を克服しながらも成長していくさまを描いているように見えて実際のところは違う。本人の努力では太刀打ちできない天性のチャームが最終的な決定打となる事も往々にしてある。

 

遠回りしたが、仕事でも同じようなことが発生する。「私」がどれほど努力を重ねたとしても、アウトプットの匙加減次第で天国にも地獄にもなりうるし、運という要素はかなり大きい。採算性の大きい事業にコミットできるかも運。評価者に好感を持たれるかも運。だから評価も運。そう考えれば仕事では自分が主語じゃないのだなということがわかるでしょう。

 

しかし、主語が自分ではないことはチャンスでもある。往々にして適度なノイズは人生を彩るが、仕事をしていると求めなくともノイズが入るのだ。情報過多なこの世の中で、自分が選べると思い込まされているので、選ぶことの重大さばかりを考えたしまうが、実のところ選ぶ余地のないところに思考が生まれてしまうのではないでしょうか。アスファルトの隙間に落下した種子のように。私のケースでいうと、社会人になってから一日千文字の日記を書く事が可能となった。これほどまでに言葉が湧くのは、自分では避けてしまうような、不可避のノイズがたくさんあるから。理解しがたい状況に置かれると、自らの前提や思い込みを見直すことになる。それは最適化された世界には程遠く、生の実感を感じる瞬間でもあるのだ!

 

程度は見極めた方がいいとは思うが、翻弄されることをも楽しんだ方がいいのかもしれない。いろいろな感情を味わって、葛藤してみてください。仕事での主語は自分ではないが、外圧によって自分の思い込みが取り払われるのは良いことだと思う。逆説的だが、コントロールできない領域でこそ、自分を取り戻す一歩を踏み出せるのである。

 

ちなみに実践的なことをいえば、コントロール可能なこととコントロール不可なものをは早めに見切りをつけた方がいい。組織の理屈は肌感に則していないこともあるし、他者を変えるのは容易ではない。だからこそ、自分だけで完結するような作業やスケジューリングなどの可変的な部分にコミットすることは実のところかなり有用なことである。

 

また、主語を自分にしないと述べたが、自分の感覚を押し付けないことも重要である。これはジェーン・スーがTBSラジオ「生活は踊る」で述べたことの受け売りなのだが、この指摘はかなり本質的だと思ったので引用した。相手が不快になるから、とか、良かれと思って…とかは相手のためのように見えてかなり自分本位な行動なのであるらしい。身につまされる指摘だった。

 

他者と働くのってある程度の困難が内包されているのだなと思う。全員異なる基準や前提を持っていて、それを擦り合わせないといけないのだから。仕事が理不尽に感じるのは、そうした差異と対峙するから仕事の「正しさ」は内容によっては個人差がある場合も存在するため、自分の思い込みをメタ認知するといいのではないかと思う。

 

とはいえ、新入社員の最重要命題はサバイバルである。新入社員の失敗は不慣れさに起因するので、コントロール可能なところ。落ち込みつつも、自分の中で事件にしない練習を重ねよう。ナレッジマネジメントがうまくいかないことも多いので、適度に原因を外にも置いてみよう。知らないことは知り得ない、知らないことは質問できないのだから!暗黙知やパワーバランスが絡み合っていて言語化されていないことも多いので、慣れで解決できます。

 

鎧を脱ぐ宣言をしたのもコントローラブルな領域を広げたいから。この2年間で後回しにした休息や読書の時間も実はコントロール可能な領域にあることに、最近薄々と気づいてきた。境界線をうまく引くこと。考えない方がいいことに境界線を引くこと。そう、主語は自分ではないが、人生の舵取り主としての自分は売り渡さないぞという所存でいなくちゃ!社会人なりたて論 基礎編は積み上がったが、応用編はこれからということだろうか。自分を主語にできないことに気づいてからの、実践がまだ弱いから。それはおいおい文字にして経過を残していこう。

 

社会人という言葉を毛嫌いしていた学生時代には信じられないくらい生き生きと思考できているし、適度な翻弄っていいのかもしれないね、いやそれでもオールは手放さないよ。そうはいっても船頭は常に自分という心意気は大事です。

 

 

日記を書く習慣/ 消費と労働

10月の終わり頃から毎日、日記を書いている。とてもインターネットに公開できないような感情の唸りを書き連ねている。仕事で荒れていた時は毎日五千字くらいの日記を書いていて、日記を書くことで逆に疲れてしまうこともあった。わたしが理想と思い込んでいる状態からかけ離れている職場(それは理想であって実際には存在しないイデアなのかもしれない、自然状態は理不尽で歪だとも考え始めたころあい)だが、大義名分自体はかなりフィットしていること、仕事は多いが働きやすさが随一であることを踏まえると離職という発想には至らない。興味本位で転職エージェントに登録してみたものの、結局飼い慣らされる場所が変わるだけなのでは?と冷笑して終わるだけである。YouTubeを見ていても、労働者の不満に応答するようなキャッチコピーばかり。仕事自体が歪なものだから、不満は絶えないはずだ。巧妙なシステムだなと思う。不満を燃やして高年収へ。綺麗な物語だが、本当に幸せになれるのだろうか。軸足が定まっていないと結局満足はできない。わたしのモットーは、全ての決定は内発的なものであるべきという考えだが、サブリミナル的に自分の意思決定に影響を与えているかも。これだけ情報過多の世の中で独立して意思決定を行うことは困難だろうけど。

 

東京は広告都市である。至る所に資本主義とルッキズムの香り漂う広告ばかり。函館に行った帰りに友人たちと嘆いたものだ。羽田に着くやいなや、コンサルだとか脱毛だとかそういう文字が躍り出る。誘惑もたくさんある。週末は友人とカフェ、たまにライブも行く、本も三宅香帆ばりに爆買いしたい、年に一回はヨーロッパに行きたい。そんな理想を掲げていたら破産してしまう。実際は削りに削っているのが、わたしのInstagramのログを見てみると、消費!消費!消費!の連鎖なのである。なんのために働いているのか、目的を見失いそうになる。大抵、疲れている時はちょっとした浪費に走る。お菓子を買ったり、洋服を買ったり。普段は一気に買愛ようにしているので。ちょっとした支出が増えるのは疲労の証拠。判断の回数を減らしたいが、仕事をしているとそういうわけにもいかない。

 

結局何がほしいのだろうか。しばしばこの問いに直面する。他人の欲望に欲望するというけれど、SNSは欲望を拡張する装置だなとしばしば感じる。Xをやめただけでもその効果は体感できる。インスタグラムは土日限定で見ているが、それでもインスタグラムを開けばほしいものは山のように出てくるし、自分が欲しいものを真に理解する必要がある時代だと思う。それはその場しのぎの欲望なのか、それとも長く使う覚悟はあるか?ストレスが高まった時こそ浪費に走りやすいから、軸が必要なのである。

 

休日なのに休まらないのは消費という行為によるのかもしれない。消費は選択の連続である。認知負荷を下げるためにも、選択肢を広げないことも大事なのかもしれない。可能性はあるようでない。瞬時的には一つのことにしか没頭できない。有限性を自覚した時こそ、人生は輝くものである。

 

時間を忘れて友人と語り合っていた学生時代のひとときが忘れられない。そうしたものは不可逆な気がする。わたしの時間は勤怠管理システムで管理され切り売りされる。難波優輝『なぜ人は締め切りを守れないのか』は良い本だった。プロジェクトが「わるい」時間を生むと指摘していた。詰まるところ、仕事のほとんどがプロジェクト的時間である。人為的に設定された締め切りに間に合うように仕事を進めるが、いつのまにか生活全てがプロジェクト的になっていることに気づく。小川公代『ケアの倫理とエンパワメント』でも論じられていたが、クロノス的時間とカイロス的時間があって、カイロス的時間が近代的な時間管理において等閑視されているのだと思う。わたしの生活を振り返ってみても、カイロス的時間は皆無に等しい。週末もジムに出掛け、買い物を完遂させて、溜まった家事を片付けて、ご飯を食べる。これらも小さなプロジェクトであり、休日も何かを完遂させねばと捲し立てられるばかり。どうすれば解決できるのか。週休を3日にすることしか思いつかないけどね。時間が欲しい。

 

三宅香帆さんがここまで人気を博していることを鑑みると、労働者はみな物事の根源に迫った人文学に多少なりとも関心をよせていて、また労働に明け暮れる生活に疑念を呈しているのである。これは希望だと思う。生活にノイズを。水面に石を。主体性を獲得したい。舵を取りたい。

世界を読み直す力をいかに育むか

部署が変わって半年が経った。初期配属の部署がまあまあ忙しかったのもあり、体調を崩しつつあったので配慮の上での異動だった。が、現在地もなかなか構造的に破綻しており、毎日疲弊している。交感神経が昂って仕方ないので、スリープレスな日々。一般的な睡眠障害の域まで至っていないので、一応元気です。会社員って多分こんな感じなのかもしれないな。

 

とはいえ、わたしは仕事一辺倒に生きたくないので日記を毎日書いている。愚痴が溜まっているときは5000字ほど一気に書き上げる。そんなに溜まってるのか!と自分でもびっくりするが、定期的に安全な形で噴火させた方が良い。粗くて、醜い感情も渦巻いていて、誰にも見せられない代物だが、心の澱を取り除くようで、毎日少しずつ前進している実感を得る。実のところ、混沌に混沌が折り重なるような日々なので、実態は疲弊という言葉が適切だろうか。

 

休日は相変わらず極北に思いを募らせる日々で、北極圏にまた行きたいなと思ったいる。オーロラの夢を定期的に見る。モードの切り替えができるのが救いであり、文学を専攻していたことのメリットほかならない。組織論とかマーケティングとかいかにもビジネスにつながりそうな話も嫌いではないが、本流ではない。休日はその類の本は読みたくない。何がしたいのか?という点を突き詰めると、結局ビジネス的な成功じゃないんだろうなと合点がいく。人文系で学位を取ったあと、一般企業に就職をした人たちは一体どのようなキャリアを歩んでいるのだろうか。

 

わたしの体感では意外なことに、タフなクライアントワーク(コンサルなど)に従事している人も多い印象がある。文学部は就職に弱いと常日頃言われてあるし、わたしも就活が大嫌いだったのだがそれは神話かもしれない。とはいえ、他の学部と比較すると、確かにそれはそうといえる要素もあるのは確かな気がする。就活という枠組み自体を疑うから。

さて、そんなちょっと反骨じみた気位を持っている人たちは、どこで何をしているのだろうか?ずっと気になっている。わたしの周辺では、みんな違和感を持ちつつも、なんとか適応しようともがいている。

 

人文学で涵養した力をどう社会に活かすか?研究科の先生たちが必死に考えていたが、なかなか外側には伝わっていないようだ。クリティカルシンキングって昔ながらの企業では嫌われるしね。まぁもちろんかなり雑な議論だけど。もちろん、ここでいうクリティカルシンキングとは前提を理解せずに正論を投げつけることではない。暗黙知を拾いつつも、前例にとらわれずにニュートラルに思考を展開する姿勢である。社会の暗黙の了解に対して、少し抗いつつも適用している、というのがリアルな姿なのであろう。わたしの尊敬する先輩がたはコードから外れないように、でも強かに自己主張もしている…そんな感じである。

 

今後どうしようかな。もちろん仕事もそうだが、人生をかけて達成したいことに対して思いを馳せている。To Beはありありと思い描けるのに、doまで棚卸しできないのが現状である。具体的にいえば、わたしのやりたいことは日常にノイズを入れること、没頭するためのtipsを共有することである。これは別に集中するためのノウハウを共有するのではない。世界を編集し直すことの方法論を共有したい。受け止め方次第では大きく変わるので、どのように固定観念から自由になるか?という読み替え術のことである。このコンピテンシーは大学時代にかなり集中的に学んだ。わたしの恩師はこの点についてかなり厳しかった。予定調和に満ちた論文を嫌った。既存の言説に乗っかっただけの論文を嫌った。先行する文脈を体系立てて、そこの空隙地帯から論を組み立てるように指導した。学問の基礎となる方法論であるが、非常にクリティカルに、そして端的に指導をいただいた。この方法論はいろいろな場面に応用できると思うのだが、やはり人文は机上の学問として認知されているがゆえに、その接続は等閑視されているように思う。

 

ジリアン・テットは部分的にわたしのロールモデルである。文化人類学から金融の世界へと転身を遂げた人であり、組織のサイロ化について文化人類学フレームワークに基づき、警鐘を鳴らした人物である。いち会社員として、大局的に物事を捉える機会はそれほどないだろうし、どうしても虫の目ばかりが先行してしまうだろう。それが縦割り化の弊害だが、円滑に意思決定をして業務遂行に至るにはサイロにわかることが効率的なこともわかる。横串的なサムシングにはできる限り関わりたくないのも事実である。

 

しかし、どこかで俯瞰的な視座を持っていないと、破綻することも自覚している。そのバランスが肝なんですけどね。会社員をやっていると、その間で揺れることが多い。社会人2年目、目の前のことをやるしかないのは事実なのだが、これに終始してしまうならば、あまりにも虚しいと感じ始めている今日この頃である。

 

さて、次に何をすべきなのだろうか。毎日思考して計画を立てている。なかなかタフだが、とても楽しい。

極北に行きたい

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ちょっと前にフィンランドを訪れた。それも、ラップランドの北の方。旅程の半分以上が北極圏の旅だった。わたしの夢がひとつ叶った。北極圏を旅すること、である。

 

かつての戦争で灰燼に帰し、復興を遂げたロヴァニエミ。そこからさらに北上し、大きな湖のほとり、サーミの村で逍遥したわけである。短い時間にプランが凝縮されていたため、忙しなかったが、とても良かった。森と湖だけで構成された風景を眺めることができた。それだけでも大きな功績である。オーロラは…北を志向するわたしならまた見に行くだろう、と思って。

 

わたしの北志向はきっと、梨木香歩に由来しているのだと思う。これは数々のエッセイや旅行記を見ていて思うこと。梨木の文章に登場する地名を見ると、ハッとさせられる。わたしが行きたい場所って梨木によって決定づけられているのかと気付かされるから。

 

とはいえ、わたしは幼少期に北海道を何度も訪問していた関係で(親もある種の北志向があったのかもしれない)、北国の凛とした空気がとても好きだ。新千歳に降り立った時の、本州とは明らかに異なる空気、植生。わたしにとっての癒しは北国であった。

 

今回の旅は諸々のトラブルもあり、ほぼラップランドの森の探訪で終わった。ヘルシンキのへの字もない旅だったから、なかなか人に旅情を伝えられないのが悔やまれる。というのも、この北への志向は雑談ベースでしたくないから、という要らんプライドがあるから。とりあえず森に行って…リトリート?ですかね?と結論づける。だってわかりやすいんだもん……。

 

リトリートだったのか?と言われるとそうではないと思う。ソーシャルメディアから離れて焚き火を囲み、オーロラの出現を待ったり、ベリーを摘みながら森を歩いたり。そんな時間は確かに癒しだったが、北国を訪れたことにより、さらなる北への欲求が湧いてきたのである。人間、とどまるところを知らないものである。さらに北の!ウツヨキに行きたい!ヌオダムに行きたい!という気持ちを抑えつつ、帰国。旅行前に読んだ『サーミランドの宮沢賢治』を読み返す。ああ!もっと北に!行けるのだ!とさらに胸が弾んだ。多分、リトリートとかではない。地平を広げることは全然癒しではないからだ。

 

当該図書でも言及がある通り、極北であっても決して辺境と一蹴することは適切ではないのだ。そこには暮らしがあるから。確かに都市からは離れているけれども、トナカイ放牧を営むサーミの人たちが暮らしている。実際にサーミの方の家を訪問したが、本当にただ暮らしているのであった。いわゆるプリミティブに対する眼差しを投げかけるのは全く不適切である。

 

サーミ近現代史の概要、そしてファミリーヒストリーを聞く。観光客向けにビジネスを営むやり手の経営者だったが、観光客向けに誂えられた施設でもなく本当の民家だったため、とても良かった。家族の写真とか、台所の鍋とか。暮らしの延長を体験するのって実はかなり大事だと思う。

 

以前はマルタに短期間留学したときを思い出す。ホームステイして良かったと思う。完全にビジネスとして営んでいる(という人がほとんどと思う)ホストファミリーだったので、家族の動線とは切り離されていたが、それでも台所事情とか見るのはとても楽しかった。夜のダイニングで窓の景色を眺めながらご飯を食べる。なんか英語は通じるようで通じなかったけれど、暮らしに近いところにいてわたしはとても満足したのである。

 

だから今回のラップランド探訪も暮らしを体感できたところが良かった気がする。サーミの博物館にも訪れたし、森林の事情にも詳しくなれたし(蟻塚はコンパスとして機能するらしい!なぜなら太陽を向くから)、知恵を色々授かることができた。もちろん観光向けのパッケージであることは承知しているが。

 

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本当にフィンランドは湖が多い。東山魁夷フィンランドの湖と森を描いていた気がする。フィンランドに来たというのに魁夷の絵画を思い出すしたときのこと。オーロラは観測できなかった。

時期が悪かったかも。

 

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意味もなくサンタクロース村の針葉樹の写真を撮った。ロヴァニエミに降り立ってびっくりしたのだが、木々の香りが豊穣なのだ。サンタクロース村は市街地よりも空港に近い。

 

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アアルト設計の美術館は現在改修中とのこと。ロヴァニエミ市街地もアアルトが設計した。空から見るとトナカイ型の路地となっている。それに着想を得た作品を作ったお爺さんと話した。確かにトナカイでしたね。

 

ロヴァニエミ市街地は徒歩で一周できる。どことなく旭川を彷彿とさせる街。極北の玄関口である。

 

カメラロールを見返すと、あんまり写真という写真がない。それもそのはず、森と湖の景色ばかりだからである。ピクチャレスクな写真は撮れなかったが、北の空気は存分に味わうには良い旅だった。ロヴァニエミから北上すると徐々に木々の背が小さくなるのですよ!そんな事実を目撃できてわたしはとても嬉しかった。

 

もっと北に行って、地衣類の広がる荒涼としたツンドラ地帯にも行きたい。完全に極北にロックオンされた旅だった。手軽なところで、まずは北海道行こうかな。ブラキストン線を越え過ぎている気もするが。

はてなという媒体の心地よさ

ここしばらくは別の媒体で文章を書いていたけれど、やっぱり居心地ははてなが1番良い。なぜなら資本主義と離れている気がするから。お金の匂いがしないから。

 

別に有料の配信をしていたわけではない。システムの中にマネタイズの要素が一つ入っているだけで焦ってしまう自分がいる。読まれなくてはいけない、読まれるための文章はどんな文章?と思案することもあった。

 

読まれる文章を分析すると、重要な要素はこうだ。文章の巧拙よりもむしろ夢を与えてくれるかどうか?というところである。ノウハウはそういう意味では夢に近しい。再現性の高さは読者獲得のための一つの指標となるようだ。夢を叶える方法。もう少し煽るならば、あなたが夢を叶えられない理由はこうだ、と宣うのだ。

 

知り合いは自作ホームページで文章を書いていると言っていて、確かに庭のような場所で文章を書くのは快いよなと思う。文章を読んでいるかもわからんのに、インプレ目当てでいいねをくれるのもモードの違いを感じてしまう。やはり適切な場所で適切な文を、となるとはてなはとても心地よい場所である。

 

もちろん、ユーザーがたくさんいる媒体で書くことも大事だが、それ一辺倒になると書きたいことが書けなくなる気もしている。良いところ悪いところ両方あるから、上手くバランス取りたいな。

 

一会社員として働いてみて、ようやく手応えのようなものを感じている。昨日の夜はチームに貢献できている快さを感じながら眠りについた。

 

その一方で、わたしが本当にやりたいこと/心が踊ることについても明確な像が見えてきた。それは別に仕事を変えるとかそういう話ではなく、生涯をかけて何を為すべきか?という話。ライフワークは別に賃金労働者としての労働である必要はないのである。

 

どこかでビジョンについてお話しできるといいな。まだchat gptと壁打ちしながら温めている状態だから、いつかね。ロールモデルもなんとなくいるし、世界観もなんとなく考えている。

 

私のやりたいことはたくさんあって、いまは毎日ざっくり経営学/英語/その為資格に関する勉強をしているけど、やりたいことは全部繋がっているから、地獄のマルチタスクとなってもやり遂げたい意志は、ある!

 

潜ることと広げること。それぞれ両方とも必要だと思っている。

 

修論だけ書いていた学生時代はとても閉塞感を覚えていた。手を伸ばしてもどこにも届かない感覚があった。いま会社員しながら学びを続けつつ、いろいろ足を踏み入れていると、一つのことに没頭するのも良い経験だったなと思う。

わたしのADHD的タコ型のビジョンメイキングだと、どうしても中途半端になっちゃうし、浅くなっちゃうからね。広くて浅いやつもうgood night ってヨンスも言ってたし^_^強制力を持って怒涛のインプットとアウトプットできた経験は確実に今の私を形作っているなぁ。

 

今回はこれくらいにして、また海に潜ろう🪼