Naegi

逍遥

自分の言葉で生きる

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あなたは自分の言葉で生きているから素敵だよ、と言われたことがある。最上級の褒め言葉だと思う。

 

わたしの言葉ね。わたしの今の言葉は、わたしの根っこから離れている気がする。うまく紡げない。言葉未満の、断片が漂うだけだ。

 

世の中にはいろんな人がいる。

そんなことを軽々と請け負うには純粋すぎたのかもしれないし、もはや諦念で満たされているのかもしれない。

 

組織で働くということは、自らの言語を手放すことなのか?自問している。少なくとも、私生活においては、手放したくないものなのだが。

 

最近某メディアを賑わせている新入社員、実はちょっと面識ある方なんですよね。番組でキツくん弄られているのを見ると、自分と重ね合わせてしまう…自分も新入社員だから余計に。

 

確かに言葉選びとか、同世代の言語とは異なるかもしれないが、彼もまた自身の言葉で生きている。それを全うするために、つたえるお仕事を選んだだけなのに、スタンダードに外れているだけのことをつつかれるのは話が違う。尤も、それで話題性を生んでいるのだから、組織的な意味で見れば大きな貢献なのかもしれないが。

 

ああした弄りって社会の至るところに存在するんだよね。学友を思い浮かべると、彼のように自分の言語を持っていた人がたくさんいて、口々に「学校で浮くことが多かった」と言っていたな。

だからこそ人文学を選んだのだろうけれど。スタンダードを進んでいたら、暗黙の了解を見つけづらくなる。そもそも、つまらないじゃん?

 

自分の言語で生きているだけで(迷惑をかけていないのに!)、とやかく言われる時代は終わりにしようね。

君はどう痛みと向き合うか

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ライフステージの違いによって、友人関係の縁がよく切れると言われる年代。それが20台後半なのだ。1ヶ月に一回は入籍の報告を目にする。完全に自他境界が引けているかといえば疑わしいが、うっすらと土俵の違いを感じるので、そこで明白な境界が生まれるわけではない。入籍に伴う話で縁を切るかといわれれば、そうではない。どちらかといえば、休日にリソースを割けるかどうか、が焦点なのではないか、と思っている。

 

学生時代は裾野を広がることに執着していたが、そろそろ広げた風呂敷を折り畳まなくてはならない、と気づき始めている。スマホをいじってばかりいるので、自分の気持ちに鈍感になっているきらいはある。それでも、私はストレージはパンク気味であることを、ついに気づいたのであった。

 

時間があったので、最近のジャーナリングの記録を見返した。ネガティブな内容が多かった。私はその痛みに気づけないまま、責任を自らに帰することなくフラストレーションを溜めていた。これは、あらゆることに当てはまること。端的に言えば、自分に寄り添えていなかった。

 

毎日気を張り詰めているので、まあまあ睡眠は浅い。途中覚醒することもしばしば。眠れない日もある。こうした状況なのに、まだ風呂敷を広げようとする。自他全てに対して批判的になることもあったのに、だ。他者に優しくするには、第一に自分を満たす必要があるとはよく言ったものだが、なかなか実現はできない。

 

ソーシャルメディアの宇宙を漂っていると、痛覚が麻痺してくる。境界が引かないから、フラストレーションをうまく受け止めきれない。

 

もう少し入力を減らす必要があるのだ。情報量を減らせばもっと幸福に生きれると思う。私はとにかく入力しすぎたのだ。負荷をかけすぎた。

 

 

北海道の田畑を見る。自然の美しさを受け止めるには、少し容量が足りなかったかもしれない。

旅行はとても楽しかったが、学生の時のように湧き出る気持ちを記録に残せない。(歩く中で、うまく思考できていない。)情報が処理できていないから。眠れないから、疲れも溜まっている。

 

ファーム富田でラベンダーのポプリを買った。ラベンダーには安眠効果があるというから、ラベンダーへの神頼みということで、枕元に置く。

 

17年前もファーム富田でポプリを買ったが、宿泊した宿に置いてきてしまった。たいそう気に入ってベッドの中に入れたのが悪かった。北海道の大地を走っている最中に、ポプリがないことに気づき号泣した。あのポプリはすぐにゴミ箱に捨てられたことだろう。そして、あの宿はすでに廃業しているようだった。

 

かつて泣いていた小さな少女を救う。今回の旅で少し達成できた気がする。枕元のラベンダーの香りで、かつての痛みを癒す。

 

私は過去の痛みに囚われているのかもしれない。

インナーチャイルドを癒す、とはよくスピリチュアルの文脈で聞く。インナーチャイルドという言い方は避けるが、過去の痛みはどこかで向き合う必要がある。

 

社会に出て、改めて過去の傷が膿んでいることに気づく。あ、これどこかで読んだかもしれない。梨木香歩の『裏庭』だ。消費対象としての癒しに抵抗する物語である。暴走する装いと、痛みをともなう癒し。膿を出すには、もう一度痛みを乗り越えなければならない、と思った。

 

中高時代にいじめられた経験は、人間関係の構築においてノイズを生んでいると思う。「〇〇さんは完璧主義だから」とよく言われるが、私が本当の意味で自己開示できないのは、かつての痛みに起因するのだろう。人に対する精査も、自分に対する精査も厳しくなる。

 

スタンダードに沿うことが学生時代以上に求められる社会人生活において過去の記憶はなかなか嫌な作用の仕方をしている。

 

さて、どうしようか。もう一度、梨木香歩の『裏庭』を読もうか。あれは児童文学だけど、大人になって読んだら別の角度で解釈ができるように思う。

働き出して文章が書けなくなった

表題の通りです。くたばっています。いや、元気なんだけどね。毎日寝て起きて仕事して、また寝て1日が終わる。間隙の時間に、趣味に興じるとかできません。労働時間が比較的長めらしいので、今のうちに余暇はたのしんでおこう。お金の心配をしなくてよいのは幸福なのだろうけれど。

 

春のうちに買った本は全然読めていない。有名な比喩の、パズドラしかできない社会人になりつつある。私の場合は、パズドラソーシャルメディアに置き換わっただけ。特に守るものがないと、思われているのでしょうが、守るものはたくさんあります。思考する時間、没頭する時間。これは積極的に守らないと、権利を放棄してしまう。恐ろしい。

 

職場で上手に話せない…上手に、の定義は決して流暢さを指すわけではない。上辺のコミュニケーションが苦手すぎて、おっとりとした喋り方をしてしまう。自分でも気持ち悪いと思う。

 

日によってテンションが違う。この前嬉々として趣味の話をしていたら、今日は元気だね^ - ^って同期に言われた。バレバレ。常に疲弊している。

 

自分に対するケア…ね。スマートフォンを投げ出して、没頭することなのではないか?と思っている。ごま油で野菜を炒めている時、唯一生きている実感を得ている。オフィスにこもっていると、五感が鈍化していくものね。

 

愚痴が増えてしまう。別に、特定のストレッサーがあるわけではない。毎日働いて帰る。という流れがいかに億劫か、人を摩耗させるか、ということをありありと実感している。私が数ヶ月前まで研究していたことはなんだったっけ。

 

アンパンマンの如く、生きる意味について思案したいフェーズにきた。別に生きるということに辟易しているわけではないよ。ただ、この単純なプロセスを反復横跳びしているだけで良いのか?とは疑問に思ってしまうよね。、

問いを立てて、検証することが、いかに尊い営みだったか実感している。愚痴、噂話にまみれて生きてしまうのね。組織に入ることの定義を漸く理解した。お金を稼ぐのは容易いことではない。

 

 

描き直す 初夏2024

日常を凪に変えるための努力。骨の折れる作業だということ、私は知りませんでした。大学時代に際限なく考えていたことは、結果的に私の人生を定めることになったけれど、日々の労働とは両立しえない。具体的に述べるならば、能書、名誉、アイデンティティ、未来に関することを日常の思考に持ち越すのは、やめようと思った。

アイデンティティに関することは、無理やり思考するのではなく、降ってくるのだ、と最近気づいた。エピファニーなのである。)

 

組織に入ると、必然的に自らの能力を常に問うことになるけれど、だからといって自らの能力に関する思考を日常的に行う必要はない。必要なのは受け止める力、許す力なのだ。どれほど自分に力が足りなくても、ひとまずそれを抱き止める。なかなか難しいけれど、人と比べたり、失望したりしている余裕なんかないのだ。

 

上昇志向は実のところ、自然発生的なものであるならば追い風になってくれるのだが、無理やり作り出されたものだと、どこかで破綻するのだと思う。誰かに認められたい。勝ちたい。そんな欲求に基づいた行動は、どこかで綻んでしまう。これはパンデミックを通して私が実感したことである。

 

仲の良い人たちと話していても、誰が優秀だとか、自分がいかに価値のない人間か、とかそういう話に落ち着くことが多い。わたしも話題をこのようなフローで展開することが多いのだけど、別に私は一定の尺度で他者も自己も評価する必要もないし、権利もないのだ。ただ、とても到達しやすい場所なのだと思う。このような類の話って共感を呼びやすいし、同じコンテクストに皆を置くことができる。そんなことで芽生える紐帯がなかなか強靭であることも知っているが、それに甘んじてはいけないことも知っている。

 

綺麗事でまとまらない日常を、どのように描き出すか(語る、よりも描く、がしっくりくる。)という話は、人生の舵取りにも繋がるのである。

美術展に行ったり、建物を抜け出して逍遥するのは、生活の描写の問題に関わっている。枝葉に見えて根幹なのである。

 

少し前に話題になった某大文学部(文学研究科)の祝辞を思い出す。人生における人文学の効用を語ったものである。働き始めて2ヶ月だが、人文学の効用を感じている。これほど早く実感すると思わなかった。

 

この祝辞は、一部分を抜き取ると誤解を産んでしまうように思う。人文学は即効性や実用性はないかもしれないが人生に対して深い示唆を与えてくれる、という主張である。これが翻って、文学は人生を豊かにするものだとか、教養は必要だとか云々の議論になる。コロナ禍に自宅待機には文学が必要だとか、そんなことが語られていたが、別に文学とか、もっと広くいえば人文学は自動的に、人生を彩るものではないと思う。

 

その間には幾重の葛藤があり、易きに流されそうになりつつも格闘した痕跡があり、やっと描出方法を見出すのではないかと思う。これは、本当に努力が必要なことなのだ。

 

ふと気を抜いたら、私の肩書きとか能力とか、将来のこととかを一生懸命考えてしまう。考えるあまりに、迫り来る車に気づかず、手負の人間となってしまう。そんな感じだ。正直綱渡だ。楽しく生きているが、真顔になりそうになる。時には泣きそうになる。でも、無理やり笑顔を作ろうとも思わない。視点を「私」の内側から外側せとちょこっとずらすことで、あらゆる刺激に泰然として反応していきたい。波に飲み込まれないように、そして取り残されないように。しなやかさを得るためには、少しずらして、描き直しをしなければならないのだ!

虎になっちゃいそう

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日常は波のようなもので、凪いである日もあれば時化ているときもある。今日はちょっと、波風が立つ日であった。窓の外の天気も大いにに揺れていたから、ということも勘案した方がよいだろう。気象の停滞は人間を愚鈍にする効果があるのだろう。

 

言い訳することが上手く、いい塩梅に他責思考なので今日の今日まで仕事のことを家に持ち込むことはなかった。これはあくまでも比喩だ。要するに、仕事での失敗によって帰宅後に項垂れることはなかったのである。問題の原因をシステムの方に求めがちな性格だが、それでも十中八九自分に非のあることはある。

 

言い訳が上手な私でも参ってしまった。が、暦を調べて今日が赤口だったこと、気象の状況が悪かったことを加味して、なんとか気持ちを宥めることができた。

 

漫然と、帰途につく。心ここに在らず。危うく車に轢かれそうだった。拍車をかけて不注意を発揮してしまった。歩くのも下手だし、車の運転も下手だ。

詩の効果は、世界を読み替えることだと思う。仕事においては秩序が基盤となり、明白な基準が重宝される。が、こうしたものに対する誠実さは、うまく線引きしなければならない。下手すると強迫神経症になってしまう。そのために詩を読まなければならないのだと思う。スタンダードに合わせにいかなければならないという思い込みは、勤務時間内だけで充分だ。

 

こんなことを考えているので、通勤と退勤時には詩を作っている。勤労者の心象風景というべきか。先立って勤労感謝の日を言祝いでいるといってもよいのだ!

 

読み替えよう、世界を。私を束ねないで…というアレである。

 

詩を生き延びる術として取り入れようとした矢先、中島敦山月記を思い出し、暗澹たる気持ちになってしまった。

 

うだつの上がらない官僚の話だ。しかも、詩人として名をなすことを夢見て、プライドと執着が相まって虎になってしまった話。高校2年生にはわからないでしょうね。大学院で中途半端な修論を提出した果てに、新卒で入った組織では失敗のスタンプラリーを巡っている私が、詩を描く。私は虎になってしまうのかもしれない。

断片から脱却する

日々、思うことはある。けれども、流れてしまっている。

断片的に生きるといえばよいのだろうか。

少し時間があったとしても「無限の泉」に時間を費やしてしまう。

社会人になって「本が読めなくなる」が分かる。休日は一瞬にして終わる。

意識的に、「書く」「読む」をしなければ大学院時代に身に着けたものがすべてなくなる気がする。ここ数週間うまく話せていないもの、断片的な生活にほかならないのかもしれない。

 

幸い、五月病とは縁遠い生活をしている。私がミスばかりしていても、優しく見守ってくれる環境があるし、同期とも仲がよい。もちろん、組織であることを加味すれば大学時代のような人間関係は戻ってこないかもしれない。でも、それはそれでよい。程よい距離間が心地よい。

 

それとは別次元の話だが、大学時代の友人と集まるとあの時の空気が冷凍保存されていたかのように蘇るのだ。すごい。大学時代に愛聴していた音楽を聴けば、大学時代にすっかり戻った気持ちになるのと同じだ。大学時代を過ごした大阪から、みんなこちらに引っ越してしまった。関西に残るという選択は、思いのほか難しいのだなと思いつつ、大阪時代の友人と会うと、そこが大学のキャンパスであるかのような錯覚を覚える。

 

腹の底から笑うこと。社会をサバイブするなかで忘れていた要素かもしれない。友人の話を聞くと、そんな感じがする。得体の知れない組織のなかで、偶然居合わせてしまった人たちと軋轢が生じてしまう。人生においては制御負荷の状況に直面せざるを得ないのだ。そんなことに気づきつつある。

 

最近の話題は専ら結婚や出産、キャリアといった人生に関する話題で25歳になったという実感を得る。大学時代の友人と、新天地で、こういった話をすると居場所を大きく変えたことがわかる。それでも、数百キロ離れたこの地で、一瞬にして大学時代のように笑い合えるのはこの上ない幸せかもしれない。

 

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私は比較的、消費的な趣味を持っている。音楽、美術、文学。人文学で学位を取ったものとして、これらを消費の対象として捉えることに対して納得がいっていないが、事実給与の使い道として真っ先に挙げられるものである。(生活費は除く)文化を享受するということの、障壁を改めて感じている。しかし、こうしたものにお金を投じてきたことに対して満足感を覚えていることも事実で、節約して消費的な趣味にお金を投じることを許容しなければならないと思った。

 

大学時代駆け巡った美術展は記憶の奥底にあるし、大学時代大好きだった音楽は心の支えとなっているし、文学を愛すること、文字を書き続けることは私の人生の意義となっている。難しいことはたくさんある。たいていのことは一筋縄にいかない。人生に対して舵を取るためには、必要なものなのだ。

 

断片的な生活を生きていると、時折日々が無味乾燥なものに感じてしまうけれど、思ったことを書き留めること、自分の心に蓋をしないことは心がけていきたいよね。

垣根 膜 文法

少し前に、手負の人間となった。ほんの少し。

 

傷口が、普通の皮膚になるまでの経過を辿るのは楽しい。火山に似ているな、と思う。ドロドロのマグマが年月をかけて冷えてゆくようだ。血が出なくなり、やがて皮膚へとなっていくさま。血とマグマとアナロジーとか、マグマを血のメタファーとして使うことってあるのか。私はその例を知らないが、きっとあるのだろう。血潮、とかは似ているかもしれない。流れと血流。そんなことを思ってしまう。

 

プラスチックの膜と梨木香歩は譬えた、人間と人間を隔てる幕のようなもの。エッセイ集の『不思議な羅針盤』に収録された文章は、筑摩書房の教科書に収録されているようだ。(余談だが、私は小学生の頃に使用していた教科書で梨木香歩の文章「ブラッキーの話」を読み、すっかり梨木香歩の文章に吸い寄せられてしまった。きっと、この文章から梨木香歩のエッセイを購入する高校生も多いのだろうな、と思うとなんだか嬉しい。)

 

それは概念の儀礼的無関心にも近いのだろう。が、梨木のエッセイで強調されるのは、こうした膜から出る瞬間である。ちょっとした出来事が人と人の膜を突き破るのだ、と。

 

いま、とても悩んでいることがある。それは、このような「膜」をどのようにチューニングすれば良いか?ということである。程度を調節することが下手くそで、かなり振れ幅がデカい。心理テストで外向性を答えるのは至難の業だ。

 

話し過ぎないことはよいが、話さなければ場が冷えてしまう。必要以上には話さず、それでも場を回していく、という加減がわからない。

 

人との垣根を容易に超えてしまうのは大学時代までの特権だよな、と振り返る。特権、と表記したが、良いのか悪いのかはわからない。

 

働くのは面白い。より引いたところで「働いてんのウケる」と思ってしまうところがある。ところで、組織の潤滑油に…なれているのか?わたしは!

 

組織の「文法」にしたがって作業を行うのが楽しい。人文学の研究が暗黙の了解を顕在化することであったことと比べると、あまりにも顕在化している。明らかすぎるのだ。そうはいっても、「文法」は万能で絶対的なものではなく、解釈および改善の余地が残されているということにも気づいてきた。

 

休憩時間に、多和田葉子の小説を読んでいる。内容は掠りもしないのに、現在の仕事内容みたいだな、と思う。よく知られたことだが多和田の小説は言語を越境した洒落が連なる…一見するとナンセンスな文字の並びも、見方を変えれば輪郭を持ってしまう!というもの。言語がある種のルールだとすれば、組織のルールもそうといえよう。ある言語で意味を持ち得ないものが言語を変えたら単語になるように、ルールもまた、組織によってアクティベートされているのである。

 

組織のルールを学んでいると、カズオ・イシグロの『満たされぬもの』やカフカの『城』を思い出す。ただし、ここではカフカの作品に含まれる官僚主義への批判を言いたいのではない。組織の中での了解は、アウトサイダーにとっては奇妙な文学となる。物語を読み進めれば、不可解な文章が動き出してくるように、組織のルールやシステムもまた、しっかり動く出すのだ。

 

これにはかなり驚かされた。文学研究って、本当に役に立つ。預かり知らぬところで実をつける。思わぬ楽しさを教えてくれる。それはそれで良い。世界の色彩をつける権利があるのは、いつだってわたしなのだ。