Naegi

逍遥

Epiphany

日々の重みが増せば増すほど文章に書き起こす余裕がなくなってくる…よくある話だ。

 

このブログをある種の書き物の草稿だと定義しているため、わたしは脈略もなく話題を展開させることができるだろう。

 

…久しぶりにちゃんと文章を書こうとすれば、論文調になってしまう。恥ずかしい。

 

まず、就職活動について。この辺りの話は具体的な話をすることは難しいものの、結果論としてわたしは楽しむことができたと思う。就活を取り巻くビジネスは好きになれなかったが、普段出会うことのないはずの人たちに話を聞き、インスパイアされたことは非常によい経験になった。わたしは情熱を持って語ってくれら人の話が好きだから、楽しかった。どのような気持ちでいままで仕事をしてきたのか、困難に出くわしたとき、どのように対処してきたか。わたしが聞かれることをそのまま聞き返すようであったが、わたしの予想をはるかに上回る回答を得ることができた。 

 

大学に入ってから、継続してわたしは人に感化され続けてきた。これからもそうであるなという、仄かな確信を得て、わたしは前を向くことができたと思う。この3年間、自分について考え続けたが、こちらが思うほど世界は閉じられていない。予想の範疇を超えるような力が作用して、この世界は動いているのだという確信が湧いてきたのも、成果の一つだ。

エピファニーというのだろうか。こうした閃きは突如起こるものではなく、蓄積のなかに生起するものなのだという含蓄も得た。

 

外に出ることが大切だとか、積極的に動くことが大切だとか、訓戒は巷に溢れているが、本質は同じなのだろう。自分の思考には追いつかない世界が広がっているから、思考の外に出よう、人の示唆を得ようというのである。

 

面接の後、ほのかに嬉しい感情が広がっているのは、面接が評価されたとかされなかったとかそういう次元の話ではなく、尊敬できるような人と出会えたこと、示唆を得られたこと、そうしたことに対する悦びである。知的好奇心という言葉で集約されそうな言葉であるが、これもわたしの思考の範疇に出ることなのであろう。

 

最近、もっとも示唆を受けた書籍が中島岳志『思いがけず利他』だ。「意図されたもの」ばかりが称揚される近現代において、偶然の作用を見つめ直す論である。こう表現すれば、スピリチュアリティ関連の本として捉えられかねないだろう。確かにスピリチュアリティと親和性の高いトピックであるが、文献学に基づいて論じているため、個人的にたいへん説得力があった。

 

というより、わたし個人の心持ちをかなり楽にしてくれたのである。往々にして、心願成就に重きを置いてしまうが、果たしてその願いが妥当なのか、長期的に見てどうなのか、わからない。だから、願いに対する執着はあまり喜ばしくない感情なのであろう。わたしは長年、願いの成就に固執してきたため、なかなか辛かった。物事が思うように運ばない時、いつも失敗していた。

 

が、振り返れば、成就しなかった願いが祝福をもたらしてくれたと気づく。よく言われることだが、必要な時に物事が起こるのだと、ようやくわかってた。こう書けば、かなり精神世界寄りの発言になってしまうが、人生訓として本質に迫る見解なのであろう。

 

就職活動においても、成就しなかった願いはたくさんあったし、就活の範疇外でも返報性がないことに落胆し、かなり苦しい時期であった。数ヶ月経ち、あの時の気持ちがわたしのいまの幸福を形作っているのだと思い、物事は必要なときに起こるのだと納得することができた。

 

要するに、これが「縁」と呼ばれるものなのだろう。名状しがたい概念だが、結びつくものは結びつき、結びつかないものは結びつかないのだ。

 

 

そして、もう一つ。ここ一ヶ月、気分転換にと美術展に足を運ぶことが多かったのだが、その度に権威に思いを馳せていた。

 

正確にいえば、不自然に説明が削がれているものに対して考えざるを得なかった。美術館で提示される美もまた、一定の前提のもとで展開されていると留意する必要がある。なぜ価値のあるものとされてきたのか。とか、いろいろ考えるようになった。

 

具体的な話をしよう。

国立民族博物館で開催中の『ラテンアメリカの民衆芸術展』において感じたことがある。前提として非常に素晴らしい美術展であったことを断っておきたい。というのも、一つ一つの用語に対する定義をした上で、それが内包する問題を指摘しているため、示唆に富む展示であったことは言うまでもない。

 

ただし、わたしが気になったのは「芸術の担い手」である。この点については、公共政策と芸術という章において詳らかにされるのだが、この点について言及するならば、一貫して作り手の存在に目配せする必要があると思った。女性によるプロテスト運動云々の話を考えると、その前の民衆芸術の担い手が誰だったのか、推察できる。共同体において、織物に携わるのは、いかなる存在であったのか。そんなことに思いを馳せていた。

 

そして、芸術と著作権の問題についても考えていた。一部、撮影が禁止されていた作品があるのだが、これらはいわゆるファインアートとされるものであり、民衆芸術と差異はどこにあるのか考えていた。

 

この辺りは他の芸術作品とも関連するのだが、価値のあるもの、保護されるものとして見なされる芸術と、そうではない芸術の差異はどこにあるのか。正確にいえば、この線引きは非常に恣意的であるため、注視しなければならないと思った。

 

加えていえば、ファインアートの美術展はステータスとも結びつく。昨今の美術展は入場料が高く、やはり生活に余裕のある人たちが享受できるものになりつつある。この延長上に、人文学は贅沢品だという見解が存在するのだろう。文学を専攻するなんて、いい身分だという人もいた。どちらかといえば、文学を研究することは、既存の制度に対して懐疑的な立場を示し、権威と切り離すことなのだが、現行の状況を鑑みれば、人文学と社会的ステータスは不可分の関係にあるのだろう。ノブレスオブリージュという言葉が好きになれず、ノブレスオブリージュ的な見解を繰り返す教員に対して懐疑的な気持ちであった。

 

なんというか、こうした齟齬をどう埋めるのか考えても、参入障壁に資本力の差異があることが問題だと思う。だから公共事業として文化に力を入れている自治体に希望を持ってしまう。もちろん、盲信的に「文化的事業」を礼賛することは避けたいのだが。

 

 

とにかく、この数日で思考の迷宮に入ってしまったことは間違いない。楽しかったが、その後のアウトプットをどうするか迷い中である。修了までなんとかしなければならないことがたくさんある。とりあえず、いま得られたエピファニーを、うまく消化することが必要なのであろう。