Naegi

逍遥

日々の労働と、美術

いざ組織の中に入って、意思伝達を行おうとしてもうまく行かない。

肩の力が入ってしまって、妙な文章になる。

私はこの前の記事で、組織の規範や慣例を「文法」という言葉で言い表したけれど、まさに私は「文法」を習得中で、同じ部署の人にメッセージを送るだけで時間を費やしてしまう。

 

学生時代は別に、特定の組織に対するロイヤリティーを持つ必要はなかったので肩ひじ張らずにメールを送りまくっていたのだが、賃金労働者となると、別。コミュニケーション一つを取っても、能力が試されているように感じてしまう。

 

「文章って怖いよなぁ」

指導教員はいっていた。メールの文章一つで、その人が文章を書き慣れたひとかどうか、思考が得意なひとかどうか、わかってしまうらしい。言わんとすることは分かる。

文章を読めば、その人が体系的な知識を持っているか、それとも無秩序な知識の海をなんとか渡海しようとしているのか、わかってしまうような気がする。

私は圧倒的な後者で、毎日新しい事象に触れ、脳みそがパンク状態にある。

簡単な文章一つもロクに書けず、社用パソコンのキーボードの仕様に慣れず、ミスタイプばかりしている。

 

でも、そんな日常も愛おしい。何度も引用していることだが、翻訳家の岸本佐知子さんは『ねにもつタイプ』において、会社員という生き方を肯定している。

 

フリーランスやフリーターと違って、組織の一員になると、制約だらけで窮屈だ。でも、その制約の中で否応なしに出会わされる人や物事や状況は経験のデータベースとなって、いつかきっと翻訳の役に立つに違いないからだ。

岸本佐知子『ねにもつタイプ』より

 

この組織に就職しなかったら、出会わなかったと思うと、人の縁は不思議なものだ。

 

制約は一見すると窮屈に見えるが、日常を輝かせてくれるのも事実である。

(もちろん、度を超した制約を許容すべきとは到底思えない)

時間や空間の制約に慣れず、毎日ヘトヘトになりながら床に入り、一気に朝を迎える。

それでも、大学時代よりも「生きている」実感を得てる。

人生において、無駄なことはないのだ。

 

 

上野に行ってきた。

千駄木駅で降り、ずっと行きたかった本屋に行く。

私の愛読書が並べてあったので、これは私の好きな本と出会えるな、という確信を得た。石垣りんと、ジュンパ・ラヒリのエッセイを買う。

 

詩というのは、世界を書き換えることだ!という気づきを得た一日でもあった。

詩人・作家のエッセイを抱え、東京藝術大学から上野公園へと抜ける。

 

藝大の展覧会『敷居を踏む』に行く。

とてもよかった。美術が敷居(=権威?)として機能していることを踏まえ、敷居を越境する試みがなされていた。展示されるのは、いわゆるファインアートとは一線を画したもの。淀みのなさ、とは違うけど、決して淀みでもない。社会が目を背けて来た存在に対して、迫る。

美術館の建物という、既成の箱を刷新しようという姿勢も感じられて、よかった。

 

決して、美術はインテリアに溶け込むものではないが、だからといって肩に力を入れて鑑賞するものでもない。

 

こうした発想に対して、明確な輪郭を描いたのは、国立西洋美術館の 『ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?』展だった。

 

本当にすごい美術展だった…。よくここまで出来たな、と思ったし、そう思わざるを得なかったことの意味を考える。この展覧会では、美術のカノンとは明確に、距離を置いている。周縁に置かれた存在に目を配る。そもそも、周縁って?こうした問いは美術展全体に響き渡っていた。藝大の企画展と共鳴する展覧会であったことも、明らかである。

 

スポンサーの川崎重工業に対して、展覧会出品者が抗議したことは記憶に新しい。

 

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美術という権力構造について。

美術館という箱について。

美術館の外に広がる、上野という土地について。

 

既成の美術展では、不可視とされてきた存在に光を当てる。

 

とても良い展覧会であった。

後日、改めて図録を買った。美術カタログにしては珍しく、書籍として販売されているので入手しやすいので、ぜひ。社会人1年目にしては贅沢な買い物だということは承知のことだが、それにしても、何度も見返したい美術展だったので、図録を購入したことは妥当であろう。

 

 

なんのために働くのか、という問いに対しては「生きるため」という答えがすぐに思いつくが、その次に「思考するため」という答えがあると思う。

パンがなければ思考はできない。

 

とはいえ、職場というサイロに縛られ過ぎても思考はできない。だからこそ、私はデスクに夜遅くまで縛り付けられるような仕事は避けた。休日、美術展に行ける余力を残せるように。

 

学割を使えなくなって初めて美術は贅沢品だったということに気づき、唖然とする。

 

美術の力を真の意味で発揮するためには、もっと公共性といったものを保持したほうが良い。2,000円は高いでしょう。ますます、美術は「敷居」として機能してしまうのではないか。

 

こんなことを考えながら、労働者として労働を行う。

思考し、かつ働け。

これが私の目下の目標である。