Naegi

逍遥

儀式としてのライティング

仕事に慣れてきて、確かな手応えを感じている。文章を書き連ねることは私にとっての癒しで、マニュアル一つ作るだけでも没頭して、雑念がふっと消え去る。結局必要なのは、自我を消え去ることだと感じている。我を出していいことなんてない!ずっと言い聞かせてる反動で、ものすごい勢いで手を動かしてタイピングしたくなる。

 

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修論を書くことには大きな痛みをともなっていて、秋ごろに大きく体調を崩した。寝れば不調も治るだろう、と言い聞かせていたが、寝ても寝ても不調だった。梨木香歩『椿宿の辺りに』にあるように、痛みを癒すために何かを心の拠り所としたくなるものだ。ばかばかしいと思うことでも、少しでもタメになることならと思って儀式を実践する。私にとっての儀式は…ばかばかしいので書けない。強迫癖があることをあまり人に話せない。親しい友達にもあまり言ったことがないが、それはあまりにもナンセンスな儀式だからだ。

 

タイピングも気持ちを沈めるための儀式のようなもので、どちらかというとタイピングを目的としてライティングに没頭する時もある。騒がしい脳内を沈めるために言葉を手繰り寄せる感覚が心地よいのだ。こうやってブログを書くときもそう。占い(最近本格化した)でアドバイスを伝えていく時もそう。言葉をつながる営みがなければ、わたしは軸を失って、しなしな倒れ込んでしまうのだろう、と思う。

 

この半年は言葉を紡ぐことが極端に少なかった。事務のルーティンワークは結構苦痛だった。私が私たりえる理由がなかったし、何より言語を必要としなかったことがとても辛かった。正解が決まっていて、正解から逸れたことはしてはいけない、と思い込んでいたから余計に。大学院時代は言葉を無理やり出力していたから、書くことが時折苦しかったけれど、口を封じられる(と思い込んでいた!)ことの方がよっぽど苦しいのだと思っていた。もちろん、わたしは自分の文法ではなく組織の文法に従って動きければならないのだけど、折り合いをつけるのには時間がかかった。

 

でも実際はライティングに没頭することは可能で、暗黙の了解とかを言葉にする作業はとても大事。忙殺されていると後回しにしてしまう部分だけど、組織の持続性を鑑みるとやらないといけない作業である。定石を知ってしまえば容易くアレンジは可能だということに気づいてしまったので、もう私は大丈夫。枷を取り外せたのだ。