ここ数年、何かと逆張りして生きてきた気がする。
クリティカルとは名ばかりの逆張り。先回りして反論を想定し、論駁しようと顔を真っ赤にしていたような月日を過ごしていた。幸い、さいきん自分の置かれている枠組みに気づけるような経験に恵まれ、改めて自分をメタ的に捉えるのだが、やはり考えすぎだということは間違いないだろう。
コロナ禍になり、周囲の目が遮蔽され、本当に自分が価値を置くものは何か、思索に耽っていた。思索に耽りすぎたのかもしれない。溺れる必要もないのに溺れて、藁を縋ろうとしていた。そんな3年間だった。
わたしを支配するものは、ある種の文法と言っていいのかもしれない。物事をクリティカルに捉えなくてはいけないという強迫観念じみた思考回路だ。それは就活のエントリーシートひとつ取っても、明白に出ていた。本来ならば、そこまでクリティカルにする必要がないところを、論文調に書くこと多数、出くわす面接官に肯定的な意味で「思った人と違う」と言われた。わたしが気難しいと思われてしまうのも、なんとなく分かったしまう。
一度、その枠組みに入れば、外側が見えなくなってしまう。専門性を身につけることは、その外側を見えなくなることで、トレードオフの関係にある。
わたしは、この枠組みに縛られまいと躍起になっていたが、研究室で論文を書く度に、クリティカルな尺度(もはやクリティカルな域にも達していない、ただの逆張りだが)に囚われてしまったのかもしれない。
字面通り受け取らない。木だけではなく森も見る。
いままでの通説に、考察の余白は残されていないか、考える。独自性はあるか、自問自答する。
これを徹底したところ、かなり疲弊してしまった。
もちろん、わたしは研究が好きだ。それでも、この枠組みで考えることは、わたしにとっては持続不可能である。アカデミアに残ろうとしないのは、それゆえのことだ。
わたしは、物事を一気に考えようとする癖がある。頭の回転が速いと言われることもあれば、繊細、考えすぎ、と言われれこともある。往々にして、物事はpros and consで考えられるし、これは一概に二分されたことではなく、メビウスの和のように繋がったいる。だから、両者の意見はどちらも正しい。だから、私は価値基準を暗示するような形容詞を付与せず、受け止めるのみにしようと思う。(便宜上、どうしても形容詞はつけざるを得ない。それでも、わたしは、こちらの価値基準に基づいた表現や論の展開をしないように心がけたい。)
いままでの人生を振り替えて、時としてわたしは集団に馴染めず、いわゆる「浮いてしまう」経験もそれなりにあった。その度にわたしは自己嫌悪に陥り、わたしはなぜ〇〇ちゃんのように無難な生き方ができないのか?と辛くなってしまった。
学生時代の夢を見る。鮮明な夢だ。なぜわたしはスタンダードに近づけないのか、今になってもなお考えることがある。
このゴールデンウィークは、今までの人生を振り返ると同時に、自分の捉え直しを行えた気がする。
なんとなくやる気が出なくて、YouTubeでフワちゃんの動画を見た。フワちゃんも、ある種の生きづらさを抱えているように見えるが、その消化の仕方が巧みだ。だから、素晴らしい人生を送っているのかもしれない。旅行先で感情のコントロールができず、友人の指原莉乃に当たり散らかすも、「これだから売れてるんもんね」とフォローを入れられる。
この言葉が出てくる指原さんの素晴らしさ、言葉を引き出せるフワちゃんの魅力に感動し、涙が出てきた。本来なら、泣くような動画ではないのかもしれないけれど。
物事、すべてうまく運ぶことは非常に稀だ。だからこそ、捉え方を変えればいい。自己啓発でよく聞くような文言だが、実践するのは難しい。アランの幸福論かなんかで、楽観は意志であるとか何とか言っていたけれど、わたしは自分にかける呪いから離れねばならない。
そういう意味で、価値観や物事の捉え方を揺さぶってくれる人の存在は貴重だ。わたしはフワちゃんのポジティブさ、明るさに励まされている。友人もそうだ。私の友人は、わたしとは異なった物事の捉え方を提供してくれる。当たり前のようだけど、意外と難しい。共感もしてくれるけれど、それでも自分の意見や考えを述べてくれる。時として、非常に感情が揺さぶられることもあるけれど、わたしがわたしにつける形容詞から離れるきっかけを渡してくれるのだ。そんな友人からの愛を再び確認して、ここ数年の生活がいかに幸せだったのか、確認するに至った。
自分を幸福だと捉えることは案外難しい。特に、クリティカルな目線に囚われていると、ついついネガティブな側面に目がいってしまう。でも、いったん自分を縛っている価値基準を冷静に見つめたほうがいい。なぜ、わたしはそれを欲するのか?なぜ手に入れられなくて落胆するのか?と。それとは別の方向で、いったん考えを保留して、思考を介さず物事に没頭することも大切だと学んだ。いつだって、プログラムされたものにあらがうのは難しいし、それに気づくのも容易いことではない。
自分の思考の根本に立ち返るのもいいし、いったん何もかも忘れて踊ったり、たまねぎをみじん切りしたり、思考から離れてもいい。
わたしは内向的だが、アクティブな人間である。たぶん、わたしの思考が雪だるま式に悪い方向へ加速しないためである。新しいものを見て、学んでいくうちに自分を見つめる。ほんとうの意味で、大学で得たものは、思考のパターンを知ること、そのパターンを更新してくれる知己だ。
ようやく、わたしは希望を持てるようになった。逆張り的に生きて、現状を嘆くばかりだったが、希望を持つ方法に気づけるようになった。ほんとうに、良い変化だ。
ここ数ヶ月、目まぐるしく生きてきて、時として落ち込むことがあった。それでようやく、梨木香歩の『西の魔女が死んだ』の祖母の言葉の意味を知ることができた。引用しよう。
「サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きる方を選んだからといって、だれがシロクマを責めますか。」(梨木香歩『西の魔女が死んだ』より)
非常に有名な言葉である。わたしも中学時代から今に至るまで、この言葉を胸に抱いて生きてきた。が、「無理に合わない場所に属す必要はない」と解釈していたが、単にここでの「ハワイ」や「北極」が単に所属組織を指すわけではないと思うようになった。
無理にクリティカルに生きなくてもいいし、かといって思考を放棄する必要もない。ソリッドな生き方にこだわる必要はない。既存の枠に押し込めていては、自分がシロクマなのにシロクマだと気づく可能性をも捨てることになる。まずは、じぶんがどういう位置にいて、どういうものに支配されているのか、考えてみる。嫌になったら考えなくていい。置かれた場所で咲かなくたっていい
心の中の啓示めいた思いが、小説中の言葉とリンクする。恣意的な読みかもしれないが、腑に落とすことができた。
希望を持つということ。それは、じぶんに対する形容詞から一旦離れること。どのような「文法」をもって世界を解釈しているのか、気づくこと。そのためには、文法の外側と繋がること。
研究と就活、友人との交流、アルバイトによって、わたしがいかなる「文法」で物事を語り、解釈しているのか気づくことができた。これは希望なのだ。