国立国会図書館デジタルコレクションで全文検索できるようになってから数ヶ月が経った。根本的な研究方針が抜本的に変わったような気がする。資料の収集難易度は大幅に下がったものの、それゆえに情報を羅列するだけの研究は許されなくなった。いままでも許されていたわけではないと思うが、検索精度が上がれば上がるほど、こちらの解釈の技量、体系化の手腕を求められるようになる。いまは就活と並行させて研究を進めている段階なので、断片的に情報を収集させるのみに留まるっているが、これからどう編集していけばいいのか、悩ましい。
情報の氾濫に耐えきれなくなった。大学入学以降、Twitterで情報を得てばかりだったが、最近はその秩序のなさに苛立ちを覚えるようになってしまった。高校時代のTwitterは戻ってこない。あの頃は緩やかなコミュニティだったのに、今や分断を可視化する場所になった。これは良い変化とも悪い変化とも捉えられるだろう。ただし、さいきんはタイムラインが無秩序で、インフルエンサーによるステマがあると思えば、怒り狂った人のツイート、引用ツイートでの水掛け論などが繰り広げられ、疲弊してしまった。いくらスワイプや通知がこちらの行動を刺激しようとしても、この無秩序サイバー空間に身を置くことは、まったく心休まらない。だから、わたしはTwitterから離れようとう。
ClairoのAmoebaにEcho Chamber という言葉が登場する。まさにわたしはEcho Chamberの魔力に取り憑かれたのかもしれない、と思った。ここ数年、わたしは怒ることが多かった。もちろん、ある種のプロテストは絶対に必要だし、今後もプロテストすべきことには声を上げていくつもりだけど、これを怒りという感情でコーティングしたくない。感情は思ったより強力で、サイバー空間においても一瞬で伝播することが可能だ。幸い、わたしの怒りに共感してくれる友人たちがいたおかげで、なんとかTwitterをつかって自身の感情と向き合うことができた。でも、さいきんはEcho Chamberに陥っているような気がする。いいねを得ることで、わたしの思考は狭まっている気がする。わたしは共感を重視する。他者の靴を履くことを語ったブレイディみかこも、共感の恐ろしさを述べている。ソーシャルメディアにおける共感の作用はおそろしい。自分を取り巻く環境で決定するに過ぎない正義を信じて疑わない。
ClairoのAmoeba歌詞を引用しよう。
Between the gaps,
Keep it under wraps
How I got to some epiphany
この歌はコミュニティと自己の境界線について述べていると思う。自他の境界が薄れさせまいとする意思のようにも思える。コミュニティの「文法」がいかに自己像を歪ませるのか。インスタントに感情を共有できるからこそ、この歌詞の意味は真実味を帯びてくる。ほんとうのことは言わない。
なんというか、この歌詞は偽りのなかに書かれている気がする。上記の部分は冒頭のBetween the gaps I was swimming lagsに呼応するのはもちろんだが、この歌詞自体がBetween the gapsにあるといえよう。語りの視点は変わる。 echo chamberが示唆するのは、共同体の「文法」であろう。共同体の視線が内面化されるかと思いきや、実はそうではないと気付かされるところがこの歌詞の巧みなところだと思う。
この歌詞のように、わたしたちはEcho Chamber と自身の感情とのあわいにいる。ただし、Twitterのようなソーシャルメディアによって、共同体の「文法」が内面化されてしまうとも思うのだ。内面化されたかのそぶりを見せて、毅然とした態度を取ること。この歌詞が示唆するのは、Between the gapsでのレジリエンスであろう。しなやか、かつタフに、サバイブすることの必要性。
情報は溢れている。だから境界線を引く。適度に囲い込む。これが難しい。抽象的だから。
具体的な方策として、入ってくる情報に大して自分なりの解釈を示すこと、そして情報を自ら選択することがあるだろう。
最近、わたしはひたすら無意識にスワイプして情報を得ていた。怖いことだ。選んでいない。現るのではなく選ばされている、のような段階をすっ飛ばして、選択の可能性すら捨てている。
わたしは自己の話ばかりしているんじゃなかった。しっかり情報を取捨選択し、自らの血と肉としなくてはならなかった。これに気づいたのがM2の春だなんて。これから自分の言葉で世界を捉えるために、文を書きます。共感を呼ぶための文ではなく、わたしがわたしの個として世界を捉えるための文。
ブログ、リニューアル宣言!こわくて抽象的な話しかできなかったけれど、これからはしっかり考えを述べていくよ。Echo Chamberから逃れるために。