Naegi

逍遥

ミルフィーユを解体する

論文みたいな文体って翻訳文っぽくなるよね〜と友人と話していた。まさに、最近のわたしのブログは論文の文章に侵食されていて、うまく自分の心情を書き表さなかった気がする。かと言ってわたしの論文の文章が優れているかと言われればそうではない。自分の文章スタイルを持っている人がうらやましい。跳ねるように論文を書く人もいる。この人たちは自分なりの文法を持っているのだろう。わたしはこれという執筆スタイルがなく、最近読んだ文章によく影響を受ける。その意味でわたしは文章のコピーが上手い。たぶん、ゴーストライターが適職である。やらないけど。

 

わたしの文章を振り返れば、堅い文章がとにかく苦手だった。論文がそれなりに書けるようになったという点では、成長したのかもしれない。と同時に、自分の気持ちをうまく伝える手段を失ったようにも感じる。小学生の頃、随筆を書くという課題を経てからというもの、嬉々としてエッセイを自前のノートに書き付いたり、自分で手書きのzineを作ったりしいて、自分のスタイルがあった。特段うまい文章ではなかったが、それでも跳ねるように、というか流れるように言葉が出てきたように思う。だから、私もそろそろ文体の棲み分けがしたい。Twitterに書くような感覚でブログが書ければいいのだけど。そう思ってTwitterの記録を遡ると、わたしって口が悪いんだな〜と思う。とても、の意味でクソ!という言葉を使わない。無理かも。

 

大きな文脈で解釈しない!人をラベルで見ない!と心がけているのに、バイアスは往々にしてかかってしまう。私に欠けているのは精読そのもので、文章を読まずにコンテクストばかり追う悪い癖が出てしまう。わたしは文学よりも歴史の方が向いているのでは?と思うも、歴史の理論書すら読んでいないので、空欄にすぎない。精読できないのは断片的に情報を得ているせいなのかもしれない。体系的に、そして細かいところも見る。これがわたしの目指す姿だ。

 

性格的に私は全体を見ないと気が済まないタイプで、現代文の読解の問題も、同じく全体を見通してから、個別の分析に入っていた。この性格はけっこう研究では役立っているものの、余裕がなければ断片的な情報からもっともらしい全体像をでっち上げてしまう。劣化chat GPTである。その性格が災いし、精読にも影響を与えてしまう。劣化版chat GPTであれば、良い論考がかかるはずもない。結論をすぐ出そうとするわたしの悪い癖を反省した。ある程度システムがわかってしまえば、課題に対する取り組みもあらかた作業と化してしまうが、それゆえに取りこぼされてしまうものの存在について考える。わたしはもっと、初心を思い出したほうがいい。傲慢さが芽を出している。悪い種…ソラニン

 

愛についても考えた。(話題の飛躍)

replaceableなものとしての愛を享受するとかは私の性格に向いてない気がする。誰でも向いていないのかもしれないが。恋人の有無とかそういう話になる時に、マッチングアプリとかやらないの〜?とか言われるものの、わたしは使わないかな〜とお茶を濁す。本音を言えば、わたしは恋人がほしいのではないし、恋人を作る目的でわたしと知り合った人との関係が長続きする気がしない。まぁ、これは卵が先か鶏が先かの論争でマッチングアプリ肯定者に対する水掛け論かもしれないが、わたしは恋人が欲しくて親しくする、のようなコミュニケーションが苦手だ。たぶん、ラベルを目的としたコミュニケーションがいやだ。私の人生を巻き取らないで…と全力被害者ヅラする未来しか見えないので、利用しません!という具合である。

 

加えて、恋愛感情と関係性が不可分のものとして見做される一般論をやや理解できないところがある。好きだから付き合う、という流れが違和感なく受け入れられているのに、疑念を持たざるを得ない。それに好きとか要素も複数の因子が絡み合っているのに、残念ながら、容姿とかそうしたもののランキングで語られてしまうのはなぜか。そんなに単純じゃないよ。まぁ仕方ない。そうした文脈から逃れるように生きていこう。

 

恋愛の文脈がいちばん理解されやすいので言及したが、これは人間関係全般にいえることで、中学時代から続けてきた癖である。一人になるのが嫌だからという理由で近づいてきた子は、往々にしてすぐに違う子と仲良くなっていたし、勉強を教えて欲しい、と言ってきた子はわたしの話を全然聞こうとしていなかった。ラベルを見て近づいてくる人は、すぐお見通しなのである。同じ属性であれば誰であっても構わないのだから、思ったより頑固とか、思ったよりネガティブとか、予想を覆されると途端に離れていく。

 

だからね〜向き合う人の地層のような心のありようを受け入れて、認めてくれる相手が本当の友人だし、わたしも相手の多層性を受け入れながら関わりたいよ。占い師に「あなたって誤解されやすい人だよね〜、一見すると明るい人だけど、しっかり暗い部分を持っている人」と言われた。しいたけ占いにもそう書いてあった。たしかにそうなのである。流行りのMBTIで表せば、外向きのキャラクターはENFJだが、一人でいるときはINFPないしINTPなのである。(TかFかというところは状況によるので一概に言えない。割と論理でどうにかしようという性格も強い)わかってくれない!と喚くことは簡単だが、わからせないように仕向けてしまうのもまた事実である。この人になら開示していいな〜と思うとき、信頼しているかどうか、わかってしまうのである。

 

あなたってエネルギッシュな人ですが、周りの人を置いていく傾向はありませんか?と面接でよく聞かれる。たしかに、わたしは一人で走ってしまう癖があり、その猪突猛進さはプラスにもマイナスにも働いてきた。でも、わたしは暗い人だし、自己批判的なので、周りの人を気後れさせてしまう時はすぐわかるのだ。そんなに簡単じゃないのに、いとも簡単に面接官は白黒つけるのだなと思った。面接だから仕方ないのかもしれない。心の底の部分を語らせてくれたら…と思うものの、そう簡単に組織に対して開示する気はないし向こうも興味ない。だから、これが最適解なのかもしれないな。

 

さいきん日記が捗るのはそういうことかもしれない。就職活動で修正している自己像を自覚すること。あえて語ってこないことに焦点を当てることが目的なのかもしれない。わたしがやけに明るく振舞ってしまうのは、過去の経験から、取り残す人を作りたくないから、という理由がある。でも、そんなことを語りたくないし…。繊細だけど大胆!みたいな自己矛盾を抱えていると、デカい自意識が育つので、なかなか面白いよ