Naegi

逍遥

自己保身に走る、という言い方があるけれど、自分の弱さから目を背けるには効果的な方法だ。かくいう私も自分の弱さを知るのが怖くて、なにかとやさしい言葉に埋もれてしまう。  

 

孤独について考える。ここで、大好きな歌詞を引用したい。冒頭はこうだ。

 

あの子は誰よりも退屈に慣れている

こちらを見て泣いたりはしない

真夏の日差しに育てられた

母よりも怖いぐらい

わたしでいるために

こころの隅の話をしよう

ーカネコアヤノ「わたしたちへ」

 

わたしが欲しかった言葉はこれだった。

孤独を肯定するためには、「心の隅」を見据えたほうがいい。だから、「あの子」は「退屈」に対する耐性が強いのだ。これは、わたしが國分功一郎の退屈にまつわる議論に影響され、アレントの孤独論を頻繁に取り上げるせいもあるのだろう。もちろん、それ自体は手放しに称揚されるべきものではないが、生活の所感としてあまりにもしっくり来てしまう。

 

三月は大変な時期でもあったが、解放の時期でもあった。心が揺れ動く出来事は、実際のところ自分にとってポジティブな意味を持つことが多い。ひとつは、しがらみからの解放である。適切な比喩が思いつかないが、心にある爆弾を一気に爆発させた感じがする。その副作用として体調を崩したが、もうすっかり元気である。一度ガツンと底を見た方が、楽になれる気がする。そう、私は「こころの隅」へと目配せを行ったのだ。

 

なかなかの難しいことだった。わたしは何を望んで何を恐れているのか。何に縋りついているのか。こうした隅の部分って、容易に魔の手がアクセスできるところ。見るのが怖いから。見つめることなく、去ることを望んでいる。だから退屈が怖かった。

 

何かと予定を入れないと、恐ろしいほどの虚無に飲まれそうだったから。わたしは虚無に飲まれまいと、予定を入れた。タスクをこなした。でも、それでは無理があると体調を一気に崩した。ここで、癒しを求めて、外部に救済を求めてしまうのだろう。

 

 

痛みと向き合うことは困難だ。2年前、なかなか治らない副鼻腔炎に悩まされていた時、救いを求めていたのを思い出す。病院に行って薬を処方されても治らない。梨木香歩の『椿宿の辺りに』を思い出す。あの作品は、痛みを根源(というか因果)を探る物語だが、何かと意味づけを求めてしまあのはわかる。人生は時として不条理に直面する。なぜ、私だけがこのような目に遭うのか。なんで、何度も同じようなことが起きるのか。理不尽と表現したくなるような事象に直面することは、珍しいことではない。

 

カネコアヤノの「アーケード」でも、「全てのことに理由がほしい」と歌われていたけれど、答えや理由が欲しくなる衝動ってあると思う。特に、複数の要因が絡み合った事情については、明快な答えを求めたくなる。なぜ、わたしは体調が快復しないのか?なぜ同じような目に遭うのか?理由が欲しい。

 

占いのビジネスが流行するのは、わかる。この出来事は〇〇を学ぶために起きているのだ、と教えてくれるから。私も占いが好きだし、占いができるからこそ、危うさを感じている。そんな簡単に答えを譲ったいいのか?と。一つの痛み(これは比喩的な意味で)は、一つの要因から生起しているわけではない。それほど簡単なことではなく、根源を辿れば、宿命みたいな言葉でしか形容できないケースもある。(だからといって、前世が〜とかの議論を肯定するわけでもないが、そうとしかいえないこともある。) 

 

だから、漠然とした何かが怖い。痛いし、不安だ。この所在なき気持ちの行先が、忙しさとかだったりする。不安を忘れるには没頭が良いと言われていて、本当にその通りだなと思う。私は文章を書いて、気を紛らわせている。ただ、没頭するために忙しくするのは何か違う。たましい?の大切な部分を売り払っている気がする。無理に忙しくすることは、こころをなくすこと。あーいやだ。ありきたりなお説教になっている。が、我を忘れるのと、心を無くすのは似ているようで大きく異なる。

 

…いろいろ寄り道したが、わたしは体調を崩して自分の隅の部分を俯瞰した。なにを恐れているのか、なにを望んでいるのか、うすぼんやりと把握できた気がする。なぜわたしがここ最近必死に生きてきたのか、理由もわかってきた。だから、文章が書けている。いまのわたしが、殴ってくるような孤独と闘い、共存できているのは、文章のおかげ。わたしにとって、心の隅を見るためには文章というツールが一番良い。カネコアヤノにとっては、音楽だったんだろうな。なんとなく。

 

明快な答えをもらえなくても、現状を受け入れるためには文章が必要なのだ。そして、文章を書いていくにつれて、答えがわかっていく。たぶん、わたしは本当の意味で自分と仲良くすることができたのだと思った。ほんとうは、アウトソーシングはなくてもいい。自分でわかっている。

 

最後に、ひとつ音楽のアルバムを紹介しよう。

tofubeatsの「REFLECTION 」は、自分との関係性について示唆を与える。Mirrorという楽曲では、以下の歌詞がリフレインされる。

 

鏡の中では

見えない心が映る

自分の知らない自分

なんていないはずだった

鏡の中には

見えない奥行きがある

調べようとして

手を伸ばすけどぶつかった ああ

割れた破片の上を

裸足で歩いてはいけないのに

肌に刺さったり

tofubeats「mirror」

 

これもまぁ、自分と向き合うことの困難を示唆している。鏡とドッペルゲンガーという、近代から議論されてきた系譜の上にある歌詞であろう。

 

そして、注目すべきは中村佳穂をボーカルに据えた「REFLECTION 」である。表題の通り、鏡は現実をリフレクトするものとして扱う一方で、「自分の形と似た友達と僕は話してみたいよ」と、鏡の中の自分を他人として捉えている。Mirrorでは対立していた自分が、こう友だちとして手を結ぶところに、このアルバムの滋味はあると思う。

 

弱さを受け入れるためには、自分に似た友だちとして手を結ぶこと。ありのままを本当に受け入れようとすると怪我をしてしまうかもしれない。頭で考えてもいいことはない。文章とか、なんでもいいから媒介するメディアを通して、自分を知る。媒介とかいう言葉を考えると、降霊みたいな概念も想起されるが、あながち遠いものではない。むしろ類縁的なものである。文章を書く行為もそうである。もちろん、わたしはスピリチュアリズムの何かを顕彰するためにこの文章を書いているわけではないが、媒介する何かを通して、つまり、遠回りして自分の隅を見つけ出すことは有用だと考えている。

 

落ち込むこともあったが、ようやくわたしはわたしかわかった。心の隅を知ったからこそ、わたしは退屈をありがたく享受することができた。自分と友だちになれたのかもしれない。いや、むしろ自分に似た何かと仲良くすることができたと言ってもいい。

 

気づけば深夜。こんな時間がたまらなく好きだ。煩悩がどんどん遠ざかっていく感じがする。思考は万能を生む気がするが、思索は煩悩とは切り離す感じがする。もちろん、なんとなくの話だけど!