Naegi

逍遥

ゴキゲン

ゴキゲン、という言葉が好きだ。

ご機嫌でもなく、ゴキゲン。

ゴキゲンな人間を目指して、最近はとても自己中心的になっている。自己中心的な性格は忌避されがちだが、裏を返せば自分の意見があるのだ。心理的レジリエンスを高めるためには、自己中心的になったほうがいい。

 

今日はミスタードーナツでドーナツを買った。太るとか、そうしたことは考えない。自分が食べたいから買う。ミスタードーナツの袋を持って歩く時が、一番ゴキゲンである。

 

最近は文字ベースではないソーシャルメディアから足を洗いつつあり、いい傾向だと思う。写真を撮ることは好きだが、あまりにも他者からの視線が見えやすいところにある。ほんとうの意味での自己表現には向いていない場所だ。

 

自分のためのメディアを作るためにInstagramのアカウントを運用していたのに、いつのまにか「生活を楽しむ」自己を演出するためのアカウントと成り果ててしまった。自己表現が自己演出と変容するのは危ない。わたしは本音を語りたい。ソーシャルな場で建前を話すならば、個人の閉じこもったアカウントは本音だけにしていたい。

 

一瞬アカウントを消そうかと思ったが、ソーシャルメディアを経由して復活する友情を考えればあまりにも惜しい気がした。大学での友人に恵まれたのは、ソーシャルメディアでの活動も大きな要因となっているから。

 

わたしはほんとうのことを語りたい。もちろん、他者を傷つけてしまうことならば、わたしの願望と逸れてしまうので、そこは配慮したいところだけど。

 

就活のイベントに出る度に、いい人を演出しようとしている就活生に出くわす。あれは疲れるし、こちらもハリボテかどうかなんて見通せるので、やめた方がいいと思う。お互いのために。

 

もちろん、目の前にいる相手を尊重するために笑顔で頷いたり、目を見て話したり、とかいうコミュニケーションは求められるのだろう。ただし、それ以上の気遣いは疲弊してしまう。そして、相手の求める人物像を演じることは、自分を苦しめてしまう。

 

相手に好かれたいとか、そういう欲求は多くの人に存在するものだが、あれは容量を食うのでやめた方がいい。手から幸福が零れ落ちる感じがする。

 

たぶん、演じれば演じるほどボロが出るし、聞いているこちらも辛くなる。自分の言葉で語ろう。そのためには、徹底的な資料分析と自分の思考の言語化が求められる。ますば、思ったことを言葉にしよう。下手にフォーマットに従うよりは、自分の内面を見つめた方が思いのほか、答えは見つかったりするのだ。

 

とはいえ、人間というものは背伸びしたがる性分だ。わたしも、人に好かれようとしてもがいたこともあれば、コミュニティに馴染もうと無理のあるキャラを作ってしまったこともある。あれはあれで楽しかったのだが、頻繁に体調を崩していたので、健全ではない。もちろん、背伸びした過程で得られたもの、例えば、どうすれば自分の見た目を向上できるかとか、英語が喋れるようになるかとか、そうしたスキルは背伸びした結果得られたものだ。今となっては、生活に切り離せないものだ。

 

だから思う。背伸びして楽しいならどんどん背伸びをすればいい。でも、ちょっと振り返ってしんどくなったら、背伸びをやめればいい。ありきたりな言い回しだが、等身大の自分を確かめることが必要である。

 

等身大、という言葉は思いのほか、難しい。セルフイメージは往々にして他者との関係性の中で形成される。鏡がなければ自己像を確かめられないように、介在するものがなければ自分を認めること難しい。それはわかる。ただ、内省の時間は待った方がいい。誰かと過ごす時間があれば、同じぶんだけ自分と一緒に過ごす。これが肝要である。

 

最近の書籍では、アレントの孤独の議論について扱ったものが散見されるが、それは現代において内省の時間が十分に取れないことに起因するのではないか、と思う。自分の経験を現代、という大きな主語で語るのは憚られるが、組織内での活動に没頭していた時ほど自分とうまく過ごせなかったときはない。自分と一緒に過ごさず、ただ外側の出来事に関心を寄せるだけ。人に興味を寄せすぎた。その結果は言うまでもないだろう。

 

自分を守るものは自分だ。

かつて、このブログでも引用したが、Kali Uchisの楽曲After the stormはポジティブな意味での孤独をうまく表現していると思う。ヒーローは自分だ、と。

ヒーローを望むなら、鏡を見ればいい、と。

セルフケアの本質を表現していると思う。

多くのアーティストは、外側ではなく内面を見つめよう、というステートメントを出してきた。ほかにも、Perfumeの楽曲voiceのMVでは、ショーウィンドウにある宝石はハリボテで、本物の宝石は自分の中にある、と示している。宝探しを必死にやっていては気づかない宝を示唆している。未来のミュージアム、という曲においても、宝探しの結果、得られたものは自己成長であった。

 

冒険もののストーリーラインって案外、自己内省的であり、自己完結してしまう内容なのだ。外側を見ても、変わらない。これを伝えようとしているからだろうか?長く生きた結果、自己内省の必要に気づいたから、宝探しの物語を借りて、自己内省を促すのだろうか。本当の宝は、自分の心にあるよ!と。

 

これからは自己内省の時代!そして、内省と同時に他者と関わる…この両輪をしっかりまわしていけば、豊かな人間関係を築けるだろう。わたしは、これからさらなる豊かさを作っていこうと思う。

 

体調が回復の途上にあったので、これからのことについて考えた。やりたいことがたくさんあって仕方がない。自己内省の過程で作るzineもそうだし、より社会的な意味を持ったプロジェクトも考えている。二つは個人的なプロジェクトで、残りの二つは半組織・組織のプロジェクトだ。大学のリソースと、自分の時間というリソースをふんだんに使い、わたしの大学生活を意味づけたい。加えて、修士論文の執筆もある。楽しみで仕方ない。

 

そういえば、コロナ禍の時、他者の視線が遮蔽されて、やりたいことがなかった。なにかを成し遂げたい!という思いが強かったが、具体的にやりたいことはなかった。今や、こうしたい!という気持ちが強すぎて、リソース割けるか不安になっているレベルである。嬉しい。でも、こうしたプランは探そうと思って見つけたのではなく、いつの間にか見つけていたのである。自己内省の過程で見つけたのだ。だから、目的を達成するために何かをするのではなく、自分の直感に従って動いた方がうまくいくのだ。偶然の作用を侮ってはいけない。

 

だからね、PDCAみたいな気持ち悪い言葉を使うんじゃなくて、偶然とか思いつきとかを尊重した方が物事はうまくいく。最初から定石ばかりを追っていては、得られるものも得られなくなるのだ。あくまでも一般論は一般論として認識するにとどめておく。いちばん健全な方法である。

 

だからぁ!無意味な就活フォーマットとかのアンチなんですよ!ありのままを見せてほしい、ミスマッチを起こしたくない、という企業の意思を妨げるようなルール。あれ、自分が必要ないと思ったら、守らなくていたと思う。わたしは、ヒールのある靴で就活を挑む気はないよ!就活があれほどの盛り上がりを見せているのは、就活周辺で儲けようとしてるから。そのへんをそろそろ見極めなくては。本当に必要なのか、思考を挟む!自分で考える!自立する!世間のルールに依存しない!

 

にしても、就活エージェントが繰り返し強調する就活における自己実現!とかやかましいわ!って感じ😇

 

もちろん、わたしは組織内での自己実現というかやりたいことはある。しかし組織は組織だ。組織が大きくなればなるほど承認プロセスは煩雑になる。だから、個人のプロジェクトで完結したいことは個人でやるべきで、組織でやりたいことと分離した方がいい…わたしは書くことが好きだが、これを組織内のプロジェクトにしたいとは思わない。これをわきまえないと、いろいろ疲れちゃう。締め切りに追われるチーム作業ほど地獄はないと、学生時代のプロジェクトで学んだ。

 

いろいろ考えを述べたが、いたってわたしは元気!6年間大学で思索に打ち込めたのは、一生の財産。そんな思いを就活でぶつけるぞ〜!