ラメの入ったアイシャドウを買った。いつぶりだろう。就活していた頃はラメの入っていない、落ち着いた茶色のアイシャドウを愛用していたが、そろそろラメが欲しくて購入した。
ラメを敬遠してしまうようなメンタリティに支配されていると思う。なんだか、就活終えてから調子が良くない。燃え尽き症候群の自覚は薄々あったし、何かと足枷をつけてしまう性分にも気づいていた。ひっそり気づかないふりして、なんちゃってストイック生活をしていた。
修論に勢いが必要だと気づいてしまった。義務感に駆られて本を読んでいても楽しくない。寄り道した時に見つかる宝こそが、修論の要になるのだ。肩に力が入れば、義務感による成果物しかできない。でも、ゆるゆる研究していると成果は出る。こういうところ、あるんだよな。受験勉強とは違って、やたらと自分自身をコントロールすればするほど上手くいかない。
久しぶりに友人たちと再会した。私の学生生活がいかに友人たちによって彩られていたのか、改めて思う。大学一年生の時に克服できなかった孤独が、今になって痛み出している。コロナ禍においても、克服できないままでいたらしい。
自分の言葉で生きる、をモットーに生きていても、私は他人の言葉に容易く流されてしまう人だ。すぐ人に憧れるし、たられば論争を繰り広げる。花占いに頼ってしまうような生き方をしている。
自己啓発本の広告を見る。結論はわかりきっているのに、その手段がわからないから困っているんだよ、と内心毒づく。自分軸で生きろ!みたいな使い古されたフレーズに辟易しつつ、その方法は私にもわからない。
たぶん、自己啓発というか自己鍛錬の類はある種、自分に対する修正行為にあるようにも思う。よほど意識しない限り、他者が期待した姿に向かってしまうのが人間の性なのだろう。なんとか自分の理想にすべく鍛錬する。筋トレとかの類はそうだと思っているる。いや、体型に関することはかえって規範側に沿っているのかもしれない。
ただ、漫然とスマホを弄るような生活をしていると、一気に流されてしまう。良くない孤独を解決できないでいると、怒りや悲しみ、失望に似た感情で溢れかえる。私はそれに対する対処法を知らない。処方箋を得るために、本を読んだり他者と関わるのかもしれないが、薬を得るまでには至らない。たぶん、ほんとうに私が変わる必要があるのだろう。
ある文章を読んで、私はとても楽になった。宮地尚子さんの『傷を愛せるか』において、変容に関する示唆に富んだ記述があった。
変容するためには繭ごもりの時期が必要だという。
言い換えれば人と関わることなく、じっとする時期のことだ。凡庸で退屈で、何も変化のない1人日々は、変容のための前段階なのである。
この一年は動と静でいえば静の一年で、嵐が来たと思えばすぐに止み、しばらく退屈で耐え難い日々が続いた。でも、この日々がこれからの人生の礎になることも、実のところ分かっているのだ。ほんとうは、全てわかっている。
わたしは無理やり自らを包む殻を破ろうと思わないし、コンフォートゾーンを愛したい。温室を大切にしたいし、繭の中で好きなアニメを永遠に見たい。そんなマインドセットでいれば、もしかしたら面白い論文が書けるのかもしれない。そう信じるしかない。というか、信じることも能力の一つだ。信じる練習をする必要があるのかもしれない。