Naegi

逍遥

表現に対する居心地の悪さ

ブログというプラットフォームに落ち着きを覚える。

 

私はまごうことなきデジタルネイティブ世代なので、小学生のころからインターネットを通じて自分の考えを発信してきた。小学生の時はうごくメモ帳をやっていたし(このアカウントは当時からある!)、中学生の時はmiiverse、高校生からTwitterを使い始め、大学でInstagramのアカウントを持った。

 

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自分の考えたことを顕在化できる場が多いことは幸福だ。少なくとも、私にとっては。

大学1年生のころ、高名な詩人が大学に来て、レクチャーを行ったときのことを今でも覚えている。

 

その時の私は、人文学系の学部にいることになんとなくの居心地の悪さを感じていた。文学部不要論の嵐からそれほど時間が経過しているわけでもなかったし、試験勉強をまじめにこなしている理系の友人をわき目に、のんびり本を読んでいることに居心地の悪さを感じた。同時に、文学を学んでいる者としての誇りのような感情を持っていて、アンビバレントな状態にあった。

 

そんなときに、文学が極めてアクチュアルなものであることを詩人に教えてもらった。レクチャーが終わった後、友人と詩人のもとに行き、今の状況に対するもどかしさを表現した。日常の中に詩は潜んでいるし、詩を発することは簡単にできる。1日1ポストでもいいから、Instagramで詩を投稿してみる。それだけでも、変わっていく、と。

 

Instagramで詩を投稿しようものなら、いわゆる「ポエマー」としての悪名を馳せることになるだろうと当時の私は考えていた。が、もはやいまの私のソーシャルメディアの運用はポエマーほかならないだろう。表現者に対する蔑称としての、「ポエマー」という言葉に対しても、きちんと憤ることができている。

表現することは、社会に対する所属を意味すること。現在置かれている立場に対して、意思表示になる。でも、鍵付きのアカウントでそれをやっても仕方がないのだとも思っている。

 

ソーシャルメディア上の自己なんて幻想に過ぎないというけれど、私の「表現活動」も幻想にすぎないし、あまりにも閉ざされている。コミュニティ内で、安全で安心の空間で表現をすることは、まさに私が危惧しているecho chamberである。ただの自己満足に過ぎないものを、「表現」といってよいのか?

 

だからといって、鍵を外す気もない。ソーシャルメディアは拡散性が大きすぎるし、消費的だし、長期的な記録を残すのに適していない。タイムラインを作ることはできても、ブログのようにラベルをつけてアーカイブすることがきわめて難しい。表現の余白があまりにミニマムで、接続性があらわで、表現には向かないとどうしても考えてしまう。

 

そうなると、やはりブログが居心地が良い。表現といっても、まだ自分への手紙の域を出ていないのだから、まだまだ磨いていける。別に、上昇-下降の二項対立があるわけではない。今の状況は、とても自分自身の納得とは、ほど遠いところにある。

 

朝の通勤ラッシュが終わったくらいのころに、電車に乗るのが好きだ。

休日だと混んでいるから、平日に。

川の水面がキラキラと輝き、昼へと向かう。

この時間は学生の特権だと思う。

 

学生といっても最近は研究で常に頭を悩まされているので、年中無休である。

見かけ上は自由だから、厄介な話だ。幸いにして研究室の拘束がないため、いくらでも気晴らしはできるが、脳裏に修論のことが思い浮かぶ。リフレッシュしても、追いかけてくるヤツ。車の窓ガラスに映る月明りから逃げるみたい。

 

エッセイ集を読む。別に批判の意図を込めるわけではないが、エッセイを書くには身近な人のエピソードを披露することが求められる。私も、そうする。でも、時に違和感を覚える。私のフィルターで勝手に仕立てた物語を、実在する人に当てはめてもいいのだろうか?と。プライバシーの問題云々ではないけれど、私はあまり気が乗らない。でも、この抵抗感はないほうが書き手としてはよいのかもしれない。

 

過去のブログを読み直しても、あまりにも内面に完結しすぎている。確かに、一人で考える時間が長いけれど、過去のことを照らし合わせても、自分にフォーカスを置いて文章を書くことは得策ではない。あることないこと空想して、疲れて、嫌いになる。好きなものを研究対象にしてはいけないと同じ理屈で、あまりにも個人の内面に焦点を当てて文章を書きすぎても、ナルシシズムの匂いプンプンの何かができあがってしまう。

どうにかしなきゃ!!

 

というわけで、現実に起きたことの話をしようと思う。

もう少し、地に足をつけて生きていきたい。