Naegi

逍遥

学生生活のゆるやかな振り返り

夜は夜の闇に委ねるのが良い。陰翳礼讃よろしく、間接照明が欲しい。物を増やしたくないので、購入を躊躇するものの、夜の読書やネットサーフィンを落ち着いてするならば、間接照明が欲しい。

 

ようやく、精神的な動揺が収まったように思う。5月は予定をこなすので精一杯で思考が追いつかず、6月初旬はその反動で動けなかった。少しのご飯を食べるだけで胸焼けし、毎日体のどこかが痛かった。動きすぎることはよくない。健全な暮らしをするためには、余白の時間に思考することが大切だ。激務を避けて就活したことはよかったのかもしれない。

 

これから住むかもしれない街について調べる。いまの街と似ているといえば似ているが、それでも生活形態は大きく変わる。いまの街が申し分ない暮らしができるため、少しの不安は残るものの、これからの生活に想いを馳せる。

 

やはり、旅人の方が気が楽なのだ。取り残される人の別れは酷だ。オデュッセイアの物語を想起せざるを得ないが、飛び回ることは自由を約束するのかもしれない。それが、就職だとしても。人生の夏休みとされる大学生活だが、大学院生になれば、大学がそんな夏休みを提供する場所ではないことを知る。一見自由に見えることが、自由ではないことを知る。時間がすり減るたびに、後悔しないか不安になる生活が続いたが、最近はその類の不安は無くなったように感じる。ある意味での自由は無くなったかもしれないが、「なんにでもなれる」の圧はかえって人間を拘束してしまうのだ。ある程度、人生の羅針盤を得たから、もういいのだ。満足してしまっだ。

 

研究室の人たちとご飯を食べる。このメンバーであと何回ご飯を食べれるのかと思う。寂しい。大学院に進学してからというものの、人間関係の期限を意識せざるを得ない。修士であれば、2年で入れ替わるし、学部四年生もすぐ出ていってしまう。大学一年生の時の、人間関係は永遠に続く感じはどこに吹き飛んだのだろう。いや、いま所属するコミニュティの半分くらいが大学一年生の時に築き上げたものだと考えるならば、その予感はあながち間違っていない。それでも、一つの街のように、人間関係のネットワークに囲まれている感じは、徐々に減っていったし、行動を組織に規定されなくなった意味で自立ができたのかもしれない。

 

ミツメの「なめらなかな日々」という歌がある。

 

「まやかしに目が眩み あなたはここを去った 話の通じる人ではもうなくなってしまった」

 

この歌詞を読むと、宗教かマルチに傾倒した人を彷彿させるが、この種のすれ違いは人生でよく起こりうるものだ。

 

所属した会社のカラーに染め上げられた人。就活で人格が変わってしまった人。そんな人間関係の変容を思い出さずにはいられない。浅井リョウの『何者』は就活の嫌なところを煮詰めたような作品だが、人間がいかに所属に依存しているかを示すのもまた事実だろう。有名な企業に入ることが全てとなってしまえば、かつての人格は変容するかもしれないし、もともと選民思想じみた考えはもっていて、就活で顕在化しただけなのかもしれない。分からない。それでも、私はあの映画を反面教師として生きていきたい。それが、働く先であっても、関わる人であっても。どんな人に囲まれて、どんな肩書きがあっても、私は私でありたい。ありふれた言葉だが、境界線はしっかり保っておきたい。

 

とはいっても、最近は自他境界をうまく保てていない気がする。だから、スマホから各種ソーシャルメディアをアンストし、見るにしてもラップトップから見るようにしている。このブログの記録から分かるように、数年前からソーシャルメディアとの付き合い方に悩んでいる。あの悪魔の設計は、どうにか通知を気にするように仕向けているような気がする。Echo Chamber から逃れたいと思っても、わたしの好きな友人は好きな友人だし、コミュニティへの愛もある。ただ、ソーシャルメディアは何か本質的に何かが違う。人間のコミュニケーションを超えたところにあるように思う。システムに踊らされている感がすごいのだ。Twitterのタイムラインの仕様を見ていても、それを実感する。

 

この脆弱な自己はどうやって消化することができるのだろうか。少なくとも、誰か相手を求めることではないことは確かである。今日もまた、いつもの如く家族や恋愛を取り巻く言説について話をしていたが、多くの場合、愛よりもむしろ、なんらかの不満を代替するかたちで関係性が結ばれているように思う。心の穴があって、それを埋めるために関係性を結んでも、消耗するだけだよね〜という話をしている。そうはいっても、難しい時はある。誰かに支えてもらうことで、乗り越えられることもある。この塩梅が難しい。お互いが本当にお互いのことを思って結べる関係性がいかに素晴らしいことか。友人たちの顔を浮かべる。

 

古今東西、どこでも話されてきたことを改めて思考する。そこに新規性などないが重要な話なのだ。研究をしていると、話の新規制ばかりに気を取られてしまうが、使い古された話題は使い古されるだけの価値がある場合もある。愛についてとか、大きな話をするなよ、と自分の心を宥めつつも、それでも大きな話がしたい時はある。授業の議論では、論点の大雑把さを指摘するが、自分の思考においては、焦点の合わない、ぼやけた思考を良しとしてしまう。都合が良い脳みそをしているなと我ながら思う。

 

過去の日記を振り返る。蒸し暑さにやられ、時にアルコールの仕業で早朝に目が覚め、かといって眠りにつかないので過去の記録を見る。むかしから大きなことを考える習慣があったようだ。それでも、言葉が続かない。理不尽に憤慨する時も、同級生から言われた言葉に傷ついた時も、簡単な言葉でしか言い表せなかった。スマートフォンでのライティングは私には慣れなかったようだ。単純な言葉の並びは私を圧倒した。いまは、小刻みに言葉をだして、うまく発散しているが、かつては少しの言葉に強い気持ちを込めていた。あー、よくあの時生きていたなと思う。今ほど言葉を連ねられるわけではなかったから。大学でライティング教育を受けてよかった。五万字の卒論を書いたおかげで、言葉がすぐに出てくるようになった。過去のブログを見返すと、論文を書けば書くほど言葉の連続性が良くなっているように思う。

 

かつての私は、「人の営みから世界の仕組みを知りたい」と日記に書いていた。センター試験二週間前の日記である。下手すれば陰謀論者になりかねない発言だが、それはおおよそ達成できているように思う。もちろん、「世界の仕組み」を把握するなんて不可能だし、仮に理解していると主張するならば、私の発言全てに信憑性がなくなってしまうだろう。

簡単に言えば、私の目標は人文学をしっかり学ぶこと、であったが、私の立てた問いに対しては、真摯に向き合えた。

 

これからは、どう生きたいだろう。学問に限らず、人生に対して問いを立てることかな。漫然と生きてきた感は否めないので。もう少し、システマチックな世界に生きたい。それは単に制度という話ではなく、もっと深淵な、法則みたいなものを…と言いたいところだが、スピリチュアリストになりかねないので控えておく。ただ、見えない力、運命的な、抗えないものに対してはもう少しうまく流されてもいいのかなと思う。縁というやつに、もう少しし実直になってもいいのかもしれない。フィッシュマンズの「いかれたBABY」の「人はいつでも見えない力を必要だったりしているから」をしみじみと聴く。夜。