椿。
ついに労働者となった。私は組織のコマに過ぎない。ジェーン・スーの生活は踊る、を聴いている。組織で働くということは、私という自我を潜めることなのだ、と合点がいく。
今までは自我が全てだった、みたいなところがある。自我を潜めることはできるのか。いや、その反動で退勤後に文章を書き殴っている。私の「語り」を許せ。
周りから、とても心配されているけれど私はエイリアンなので、どこに行っても3ミリくらい浮いている。この地球をうまくサバイブできない。普通の人が軽々とできることを、3倍くらいの時間をかけてしまう。文章を読むことと、駄文を書き連ねることだけが、唯一人並みにできることである。文章を読み飛ばす速度だけは早い。しかし、そんなスキル、どこで役に立つのか。修士号を取ったとて、当たり前のことを当たり前にできなければ、賃金労働者たりえないのである。
お花を生ける。花を咲かせている。救いだ。私は、何のために生きているのか。帰途につきながら悶々としていた。が、そんなことは一生わからないし、考えても仕方がないと思う。一つ一つの言語の使用に、居心地の悪さを覚えながら、夕闇の街を歩く。
通勤時間で本を読んでいる。私が組織の文法だけに囚われないようにするためだ。人類学者のジリアンテッドが提唱したような、インサイダー兼アウトサイダーの立場を意識したい。どこかのツイートで見たけれど、フィールドワークに来た研究者と思えば、気が楽になるのかもしれない。わたしはわたしの文法で。組織の文法を使うのは、あくまで働いているときだけ。
とはいえ、私が本当に組織の文法を使いこなせるようになるのか、甚だ疑問である。最終面接の時は堂々と話せたのに、全てが真っ白になって、力が抜けていた。別人のようになってしまった。先週までの私は、大学院生だった。大学院生という肩書は、案外心地の良いものだったようだ。戻りたくはない。
私はうまく、泳いでいけるのだろうか。