先日、頑張って書いた記事が反映されず悲しくなる。と同時に、半年で書いた記事の内容が似たり寄ったりで悲しくなった。消えてしまった家事も同じく。新しい内容はない。
働くことは日々を単調に、秩序立てることである。これでかなり救われている面もある。秩序の中にあるから、学生時代みたいに底しれぬ孤独と向き合うこともなく、むしろ孤独を抱きしめることができている。
余裕が出てきた。
学生時代は食傷気味の研究テーマも、今となっては私を私たらしめるテーマだという実感を得ていて、早く論文を描きたい気持ちでいる。実際、働きながらアカデミックな活動が制度的に可能なのか知らないので、自己満足論文執筆活動になるのだと思う。どこにも出さないが、私が私として生きるために調べねばならない。
テクスト精読ってある種の陰謀論ですよね、と研究室の後輩が言っていた。確かに、下手すると牽強付会な解釈になりかねず、地の足のついた議論を心がける必要がある。なかなかそれが難しいのだ。だから、余裕がないとできない。働いているから。