Naegi

逍遥

好きのテリトリー

人に優しくしたいという欲求は、時としてエゴイスティックな感情に由来する。少なくとも私は。

久しぶりに、他の人に対してややキツめのことを言ってしまい、自己嫌悪に陥る。同時に、ここでなあなあにしてはいけない、という気持ちもあり、消化しきれない思いがぐるぐる回る。

 

これ、たぶん組織においては絶対に必要なことなんだよな、必要な場面でしっかり注意をすることって。罪を憎んで人を憎まずマインドでやっていきたいのたが、人に対してはっきり物申すことが悪意と受け取られかねないので、なかなか難しい。そして、怒っていると勘違いされるが、私は怒りの感情をありったけにぶつけることはできるだけしないようにしている。

 

嫌われる勇気と題した自己啓発本が世を席巻したことは記憶に新しい。私はその本をしっかり読み込んだわけではないので、内容自体に何かを言うわけではないが、このタイトルがセンセーションを引き起こす意味を考えたい。はっきりと自己主張できない人って少なくないのかもしれない。その根底には、嫌われたくないという気持ちがあると思う。私もそう。嫌われたくない。

 

嫌われてもいいからといって傍若無人に振る舞うのはまた違う話だが、少なくともおべっかを言わない練習は必要なのだ。お世辞やおべっかって、うっすい関係性の中では必要かもしれないが、親しい人との関係性には、まったく必要がない。その人のためにならないから。ほんとうに関係性を構築したいなら、本音で語り合おう。そのための心理的安全性はしっかり確保しておきたい。やはり、罪を憎んで人を憎まずマインドで!

 

スマホの機種変を契機に、思い切ってインスタとTwitterのアプリを消した。おかげさまで、自分の置かれている状況への不平不満が減り、満たされている実感が増した気がする。隣の芝生を見ずに済むことが、いかに尊いことが改めて実感した。

 

Twitterにいると、どうしても断罪的なコミュニケーションに陥ってしまう。うっすらと嫌悪感を覚えたアカウントはミュートして、快適なタイムラインを作っていたら、タコツボに入っていたようで、ようやくそこから抜け出せたように思う。Twitterは良いプラットフォームで、自分の気持ちをインスタントに記録できる点で便利だったのだけど、常にタイムラインを追うのはしんどいよね。怒りと悲しみに満ちた世界ではあるから。

 

使い方次第なのだ。道の途上で開くのはあまりにも勿体ない。目の前の景色を見つめていたい。

 

頑張るという行為について考える。

いま、修士論文に追われて、時間があれば文献を読み、資料を印刷して蛍光ペンで線を引いたり、付箋を貼ったりするので忙しいのだが、それなりに楽しい。デッドラインがあることは、心理的な負荷ではあるけれど、なぜか最近は楽しい。

 

他者から見れば、頑張っているように見えるんだろうな〜と思うけれど、私は頑張っている意識はない。というと嫌味っぽくなるけれど、楽しいと感じることには頑張りを感じない。

 

大学時代に頑張ったことは何ですか?と就職活動で散々聞かれた。それなりに頑張ったことはあったので答えたが、頑張ったという意識がある時点で、そんなに好きじゃなかったのかなとも思う。研究を頑張った、とはあまり言わなかった。求められていなかったと言うのもあるけれど。振り返ってみれば、あの時は周りの人に恵まれていたから、学生団体の活動がとても楽しかったけれど、活動内容自体にのめり込むほどの情熱があったのかと言われれば疑念がのこる。

 

たぶん、ほんとうに好きなことはああいった場で披露することなく仕舞っておきたいものなのかもしれない。就職活動において、興味にあることをもとに職種や業界を絞ることは大切かもしれないが、ほんとうに好きなことは避けた方がいいと思う。好きという気持ちが揺らぐ可能性があるから。

 

同じことは研究でもいえる。好きなものを研究対象にするとえらいことになる。だから、わたしは音楽を研究対象にしなかった。好きな作家を研究対象にしていない。

 

好きなものって、かなりプライベートな領域なのかもしれない。わたしは研究が好きだが、これを仕事にしたいとは思わない。

 

 

スマホを変えたので、キーボードの感覚をうまく掴めていないし、検索タブもパーソナライズされていないので、文章が書けなくなってきた。

文章を書くツールはけっこう、文章の質に影響を与えるのだな…パソコンで打つ時は基本、長文。これからもパソコンで書こうかな。