Naegi

逍遥

こぼしの小法師

今週のお題「こぼしたもの」

 

Spilt milk と題した短編を書いたことがある。こぼれた牛乳のように、収集がつかなかった試みなのだが、私の心にはいつもspilt milkがある。言うまでもないが、There is no use crying over spilt milk(覆水盆に返らず)の諺から採用している。覆水というタイトルでも良かったのだが、個人的にmilkの方が「やっちまった」感が醸し出せる気がした。水ならタオルに含ませてどうにかなるが、牛乳の含んだ繊維は一気に臭くなる。拭いたあとが肝要だ。

 

やらかした経験には枚挙にいとまがない。わたしは普通のひとと比べて、うっかりすることが多く、ミスも多い。関心がなければ、記憶から一気に抜け落ちる。なんとかリマインダーの機能で、うっかり経験が減ったものの、リマインダーすらいつもの景色に変容してしまい、うまくいかないことがままある。運動はとても苦手。飛んでくるボールを避けるから。飛球に関心がないし、受け止められる能力もない。運転も下手くそだ。なぜなら運転に興味がないからだ。

 

目の前のことに向き合えない性分なので、ものをよくこぼす。ご飯を食べていても、ご飯をすぐこぼしてしまうし、スープもこぼれ落ちる。飲み物もよくこぼす。蓋つきの飲み物であっても、なぜかこぼす。

 

起き上がり小法師って「小さな法師」と書くんだね。物をこぼしすぎて、こぼしの〇〇と言われそうな具合だが、小法師なんて贅沢な名前だなぇ、と言われる次第である。

 

つまらない冗談は措くにしても、わたしはとにかくものをこぼす。電車でもお茶をこぼした。目の前の乗客には被害が及ばなかったものの、普通に恥ずかしかった。先日「お茶は停止したら飲もうね」と諭されている三歳くらいの子どもを見た。わたしは、もう大人と言われる年なのに、お茶をこぼしている。

 

わたしがしょっちゅう物をこぼすものだから、よく親に怒られていた。いまでも飲み物をこぼして怒られる子どもを見ると、胸が痛い。確かに、必死に子育てをしていたら、ちょっとのことでコップがいっぱいになって、こぼれてしまうだろう。フラストレーションがオーバーフローしてしまうのだ。わかる。どっちも、こぼしているのだ。大人になったから、余裕を持って諭さない大人の気持ちもわかるようになった。でも、そんなに聞き分けのいい子どもはいない。せめて、これからこぼさないための秘訣を教えた方がいい。でも、それも無意味だと、私は知っている。こぼす時はこぼすのだ。