Naegi

逍遥

落ち葉の行き場

 散った金木犀の香りは旬の過ぎた蜜柑に似ている。金木犀の断末魔のような、甘い香りに出くわす。甘いんだけど、なんかくどいというか、独自のえぐみを持っている。これは、冬の終わりの蜜柑のようだと思う。回想に残存する香り。旬の過ぎた匂い。こうしたものを捨てずに抱きかかえたい。

 金木犀の香水を持っている。購入した当時は毎日つけるほど気に入っていたのだが、うんざりしてきた。金木犀の香りにも辟易するくらい。微量がちょうどいいものって、ある。菓子パンの類もそうなのだ。小学生の時に大好きだったメープルメロンパンを思い出す。我が家のルールに、土曜日の朝だけ菓子パンを食べてよい、というルールがあった。スーパーで菓子パンを選び、土曜日に食べる。こうしたルーティーンも、面倒くささに負けて、毎週メープルメロンパンを食べる習慣へと変容していった。大好きだったから、選択の余地なくメープルメロンパンを食べていた。

 今や、メープルは好き好んで食べない味である。もちろん、もらったお菓子は喜んで食べるのだが、自らメープルフレーバーのものは買わない。カナダ土産のメープルクッキーはとてもおいしかったけれど、メープルメロンパンにうんざりした記憶を呼び起こさざるを得なかった。おいしいけれど、毎日食べると辟易するもの。

 私は恋愛を、こうしたジャンルにカテゴライズしている。大学に行けば、身を寄せ合って歩く恋人たちをよく見かける。大学入学当初は少し羨望の眼で見ていたし、恋人がいたときは楽しかったけれど、今や菓子パンのように胸やけを催す。恋愛至上主義に毒されたとか、そういう話をしたいわけではなく、人間との距離の話なのだ。一人の人間と向き合うと、胸やけしそうで。メープルメロンパンのようにならないのか。すこし懐疑的である。たぶん、切り干し大根のように、飽きの来ないものを選べばよいのだけど。

 食べ物と恋愛のアナロジーはまぁ、そのセンシュアルなイメージが付きまとうが、その意図はない。ぱっと思いついたのが、JAWNYのHoneypieだ。あの曲のグルーヴが大好きで、よく聴いているのだけど、その典型例だ。

 さて、話を戻そう。結局、金木犀の香りじゃなくてサボンの香りに落ち着いた。幻想に生きることは難しい。来春から社会人として働く身なので、いい加減何かの幻想に縋りつくことにも飽きてきたのだ。学生生活があまりにも幻想で彩られていたから。新たな人との出会い、学びへの期待とか、そうしたものが一気に現実へと変容していく。金木犀の浮世離れしたイメージも、とうとういやになってきた。フジファブリックの楽曲に心酔していた時代は終わった。冷めてしまったのか。冷めたものを温めなおすような気力はない。冷めたまま、放っておいてもよいかもしれない・

 

久々に初対面の人に囲まれる機会を得た。あ、いつものキャラを演じているぞ、と自分に気づく。○○さんって人を褒めてばかりですよね、と言われる。人の美点・欠点に人一倍気が付くので、良いことは口に出していく。というか、自分が確立されていないゆえ、人と比較し、時として劣等感を感じるから、気づくのかもしれない。まぁ、美点・欠点とは書くけれど、そこに価値判断を過剰に入れ込む必要はない。ただ、そういう人なのだ、という事実を伝えているだけ。

 

究極な人見知りなのかもしれない、とも思う。私は発話量が多い。とにかく一気に言葉を発するタイプのコミュニケーションを取る。私の強みはコミュニケーション力です!とリクルートスーツ着て言い張れるほどだ。でも、相手の気持ちを引き出したいのは、自分の話をしたくないからなのだ、とも思う。口頭での自己開示はとても恥ずかしい。できるだけ文字ベースでやりたい。私は自己を語るとき、できる限り文字媒体で書きたいのだ。話すのがうまくないからか?口頭でのコミュニケーションでは、あまり自己を開示していないことに気づく。

 

占いに行ったとき(この話をよくするが、ある占い師に行ったときの話を繰り返しているだけ。一回きりの話)、あなたは自己開示をしないよね、本当の自分って全然人に見せてないよね、好き嫌いあるよね、と言われたことがある。首肯する。一見すると、そうではない。外向的な人だとよく言われる。実はね、自己開示に対する拒否感が高くなると、人の話を聞きたがるんだよ。

 

知は力になりうるのか?なんて大仰なタイトルでブログを書こうとした。大学で文学や歴史について研究していて、メタ的に物事を捉えるようになる。フレームを捉える。ステージに立つ人間ではなく、劇場を劇場と認知して眺める観客というべきか。内容よりもフレームばかりに目が行ってしまう。悪い癖だと思う。

 

斜に構える。書かれた文字を文字通り受け取らない。しっかり根拠を持ちながらも、文章の裏に込められた意図・作者の無意識なバイアスを探る。そうした作業を繰り返すと、書くことに対して意欲を失ってくる。表現することの非対称性を改めて感じる。シェイクスピアが言ったように、生きるということはある種の演技というものを伴う。生きている限り、役者をしなければならない。俯瞰することなんて、できない。俯瞰したと錯覚するならば、それはただの思い込みで、メタ的に捉えてやったとしたり顔しても、そこには無意識のバイアスがひそんでいる。絶対に正しいなんてことはない。表現者への敬意はずっと持っていたい。このままでは、ただ他者を断罪するだけの人間になってしまうのではないか、という気持ちが少なからずある。

 

知を力、権力としてふるまうことは私は嫌だ。わかったふりをしすぎている。役者なのに、粋がった批評家然として生きているのではないか。そうした疑問は消えない。大学という場所はとても素晴らしく、数多くの人から薫陶を受けた。私は大学が好き。いつか帰りたい。でも、大学の人にはなりたくないとうっすら思っている。在野でものを書く人になりたい。ロールモデル寺尾紗穂さん。大学の外に根を張って、調査したいと強く願っている。