Naegi

逍遥

悪意の仮面

少し前に書いた記事に、「森は生きている」というタイトルをつけた。これはマルシャークの有名な戯曲からとった。私自身も、小学校の学芸会のときに演じた。ストーリーラインはシンデレラに似ている。いじわるな継母役に立候補し、娘の得た金貨を持ち去る継母を熱演したのである。

 

あの時、私を駆動したものはなんだったんだろう。私は、あの時代、学年でいちばん勢力の強いグループから毛嫌いされていた。別に、自己への憐憫の念に陶酔しているわけではない。何が、私をいじわるな継母いたらしめたのか、という疑問をふと思い出したのである。

 

生きることはある種の演劇性があって、日々を過ごすにあたり、人間はペルソナをつけている。大仰にいっているが、自分のふるまいは環境に依存している。そう思うならば、私は役を増やしたかったのだろうと思う。嘲笑されるだけの者ではない、ということを誇示したのかったかもしれない。

 

それでも、私が主人公ではなく、底意地の悪い人間を演じたかった理由は、一考の余地が残されているように思う。

 

たぶん、私にも思考があることを示したかったのではないか、と思う。なんというか、私はただ弱くて、泣き顔しか見せない、無知で純朴な人間と思われることが恥ずかしかった気がする。悲しさに暮れるだけではないのだ。私は集団のストロー・マンではなく、血の通った人間であることを示したかった。悪意を跳ね返すようなタフネスを持っている。そう思って、悪意に駆られる人間を演じたのかもしれない。

 

ただし、私が演じた訳は、底意地の悪い継母役だということだ。シンデレラよろしく、幸せな結末を迎えることはない。いくら舞台上で底意地の悪い台詞を吐いたとて、待ち受けているのは破滅の道である。私の演技は、一笑に付された。

 

たかが学芸会の演劇空間だが、学年のパワーポリティクスが働くもので、イケている人たちはそれなりにイケている訳をやるもので、誰もやりたくない、意地悪ばあさんは、現実でも忌み嫌われる。

 

それから私は演劇に無縁の生活を送ってきたわけだが(だいいち、声に張りがない)、時折、あの演劇を思い出すのである。