Naegi

逍遥

暗い部屋で明るいことを考える

shouldの重圧に耐えかねて、何もかもやめたら、本当にすかっとした!

暗い部屋でインターネットをする時間が幸せだって、改めて思ったね…。

 

人文学の院生をやっていると、なにかと思考が生活を侵食してきて、心休まる時間がない。過活動なのだ。常に思考がぐるぐると旋回していて、体力的には休まっていても、心穏やかな時間がない。頭の中のことばが止まらない。

 

かつて、このブログで中島敦の「狐憑」の話をした気がする。

ストーリーテラースケープゴートになりうる話。私も時代を間違えば、生贄にでもされていたのかもしれない。脳が過活動で、言語が止まらない。うるさくて仕方がないので、毎日ブログを書いている。加えて、Twitterとインスタでも過活動である。承認欲求の塊!と評価してしまえば、それまでだ。でも、これは私の根源的な「生」を支える活動でもある。SNSが生命維持装置となっている。不健全かもしれないが、私は表現するツールがないと、鬱屈を抱えたまま生命活動を停止してしまうのかもしれない。定期的なデトックスは必要だ。投稿を見ない!という類のデトックスは必要かもしれないが、言葉を止めることを選んではだめみたいだ。

 

こんな感じで生きているので、幼いころから好き嫌いがはっきりとしていて、集団ではスケープゴートのような存在になりやすかった。ホモソーシャルな絆を深めるための、生贄。とある球技系の部活に、徹底的にいじめぬかれた。存在を否定された。呼吸をしているだけで、否定された。同じ空気を吸いたくないと言われた。でも、それはあくまでも絆を深めるための儀式に過ぎず、スケープゴートはreplaceableなもの、すなわち私である必然性はなかった。これに気づいたのは、つい1年前のことであった。

 

それでも、私は自己表現を止めない。表現はともすればイタい行為として解釈されるが、その判断をするのは自分ではない。自分が生きてきた足跡をたどる中で、満足しているかどうかが肝要なのだ。人の気持ちを内面化したところで、真の満足感を得ることはできない。借りものの思考は摩耗する。摩耗するから、新品と取り換えたくなる。あくなき循環のなかに自分を置きたいか?目先の、はりぼでの、幸せに飛びついてどうする?もはや、幸せと形容することも難しいような、そんな価値観は唾棄すべきなのである。

 

自己主張が強すぎて、コミュニティで排斥されたこと何度もあるけれど、それでも私は極彩色のイメージを提示していく。中学生のころ、極彩色の絵画を書いて、いじめられた。目立つものは排斥される。出る杭は打たれる。

 

そんなことを思っていたけれど、所属する場所を適切に選びさえすれば、そんな空気を感じずに済むらしい。出る杭が打たれない環境で過ごしてきたらしい友人を見る。きっと、私のいたコミュニティでは排除されてしまうのだろうな、と頭の片隅で思う。社に構えず、人間を心の底から信頼している人を見ると、羨望のような気持ちであふれかえってしまう。同時に、この子がこの状態で20年以上生きてきたことは祝福すべきことなのではないかと思う。

 

世間知らずとか、温室育ちとかそんな形容詞に抗いたくなる。世間は冷たく、厳しいもので、順応しなければならない、とかそんな思い込みは幻なのだ。いつまでたっても蜃気楼を追いかけても、仕方がない。

 

回りくどくなったが、私は過去の痛みをいまだに引きずっていて、認知に大きなゆがみを持っている。正義感の強さ、頑固さが災いして、私は徹底的に人間に対して線引きしてしまう。これは、たぶん仕方ないことだと思う。トラウマティックな経験があれば、回避したくなるもの。マクドナルドで、中学生の集団を見かけるだけで、苦しくなるのも確かだし、ちょっとした言葉尻のキツさに落ち込むのも事実。

 

もっと、性善説を信じたい。でも、今の自分には無理だ。結局、私は一部の友人を除いて、けっこう人を疑ってしまう性格なのだ。たぶん、私は自分の正義とか、信念に反する人間に対して、徹底的に距離を置いてしまう、というより縁を切るという言い方のほうが正しい。

 

もう少し柔軟に、臨機応変に、優しく寛容になりたい。

それはそうだが、理想にこだわる私は、幸福のためにこだわりを発揮してしまうのだ。

卒業式で着る袴も、めちゃくちゃこだわりを発揮して、3時間くらい時間をかけた。

幸福に対して徹底的に頑固であること。この点を受け入れられたら、真の意味での幸福を得られるような気がする。頑固で、理想が高くて、こだわりのつよい自分の表現を愛すこと。これが求められていることだ、と思う。

 

まぁ、こんなことを考えているので、目下の研究は全然進んでいないが、学生時代の悩みを総括するための時期が来たように思う。自然の摂理だ。切れるべき縁は切れ、新しい風が吹き込んでいるのを実感する。私は、私の幸せに対する責務を全うしなければ!と思い、好きなものに囲まれる生活を展開している。

 

ありがとう。すべてのしがらみへ。

私は前に向かっているよ。