何を信じているのか。自分はよく理解していないことに気づいた。信じること、期待すること。これらは無意識下で行われているように感じる。何か心を揺さぶる経験があってこそ気づくもので、普段は気づくことがない。だから、定期的にデジタルデバイスから離れて、心を見つめることが求められるのだろう。
SNSは奔流で、時として押し流されてしまう。人間は激しい流れを前にして無力になるのだ、ということを感じる。そんな時に光を放つのは、信念だったり、愛だったりするのだが、心の底から真と認める信念とか愛って何。と自問自答してしまう自分もいる。だからこその弱さを見出してはため息をつく。
こんなことを考えているうちに、私の思考もうねりをあげている。耳をすませば、波しぶきも聞こえてきそうだ。心の轟音を見て見ぬふりをしていたのかもしれない。
川へ向かった。水流の轟音を聞きたかったから。水流のロックと銘打った日食なつこは天才だと思う。水の流れが織りなすアンビエント・ミュージックはロックなのだ。水が涸れない限り、鳴り続けるロックを聴きたかった。川、といっても、生活に溶け込んでいる川と、そうではない川があって、今回訪れた川はどちらかといえば後者だろう。観光地化されすぎている。水辺を眺めるにも、時間がない。川よりも早い流れで人の流れが押し寄せる。橋の上から流れを眺め見る時間がなかった。
水面の光
とはいっても、水面の光はどんな状況においても、見放すわけがなく、私の心を捕らえて離さない。轟音と水面の光に囲まれて、進む。最近はインバウンドも復活したようで、聞こえてくる言語も様々だった。印象として、東アジアに加えて、南アジア・東南アジアから来た観光客が多いように感じた。コロナ以前とは少し顔ぶれが違うのかもしれない。
照り返す光に翻弄されながら、観光地の街を歩く。水流を聴くために訪れたが、喧噪を聴くことになりそうだ。観光地に訪れることの意味を、少し失念していたらしい。川に行くなら、完全に観光地化されていない場所に行くべきなのである。しばらく、この都市の観光地という観光地を訪れていなかったので、忘れていた。ここは観光地なのだ。
林も好きだ。木々の間から顔をのぞかせる太陽が好きだから。Capsuleのsugarless girlのPVみたい!と思いながら、光と影のあいだを歩く。ここも観光地だけれど、自動車の音から離れたせいか、おのずと何も考えずに逍遥することができた。こと竹林は、うまいこと光の調整がうまく、午後の陽光を優しく拾ってくれる。盆地の初夏を乗り切るには、竹林が必要なのかもしれない。
竹林の光
閉園時間の迫るなか、日本庭園に入る。日本庭園の良さの一つに、流れがあることがあるだろう。大堰川を模した流れを見つめる。数年前訪れた際も、この大堰川の流れにはっとさせられた。ミニチュアの自然に感服するなんて、アマチュア日本庭園ファンのやることだ、もっと専門知識を入れなくては…と頭の片隅で思うも、もっと感覚的な衝動に駆られ、知識や思考を放り出したくなった。ここに流れがある。その事実だけを見つめる。
茫漠とした湿地を思い出す。庭園の水流を聴きながら、私は広大な湿地帯のなかにぽつんと佇む感覚を得る。きっと、私の中の安寧は、こんな妄想のなかに存在するのだと思う。
我を忘れて、庭園を彷徨っていると、英語で話しかけられる。私に意識が向けられていることに気づかず、いったん間をおいてしまうも、我に返る。とっさに言葉が出てこない。もちろん、英語だということもあったが、対話の場にあることを忘れていたからである。ピクチャレスクな構図で写真を撮っている親子だった。Sure、と返答し、写真を撮る。私の英語力が以前より衰えていることを知る。あまり気の利いたことを言えないまま、Have a good dayと言われ、会話が終わる。
庭園に戻り、池の水面をじっと見つめる。近くにいたガイドが、西欧系の観光客に対してここはmeditation roomです、的なことを言っていたが、当の観光客は苦笑いしていた。確かに、いわゆるzen的なものに対して日本文化を見出すならば、 必然的にマインドフルネスのようなmeditationを想起するだろう。が、あまりにも日本のステレオタイプに迎合しているのではないか、と内心思った。私も心の中で苦笑いするも、実のところ、私が庭園で行っていたのは瞑想ほかならない。心のなかの泡を捉え、水面を見つめる。私が水面を追い求める理由も、ここにある。
何人かの観光客に写真を撮るように言われ、写真を撮る。ピクチャレスクな写真だと思った。映えの写真である。ただ、それだけ。当の私も水面の写真を撮る。どちらかといえば、私は精神の動きとして写真を撮っているきらいがあり、インスタグラムのアカウントは、実のところ、未来の私に精神の動きを残すためにある。振り返ると、写真の撮り方で私の精神状態を捉えることが可能なので、文章よりも信頼できる心象記録なのである。ピクチャレスクな写真は、その対極にあると私は豪語しているものの、結局私がとる写真もピクチャレスクといったものに回収されるはずである。もう少し、私は美学のなかの感性論について勉強したほうが良いのかもしれない。
日が沈みかけるなか、閉園のアナウンスが流れる。人のいないお堂を眺めながら、庭園を後にする。結局、幸福みたいなものは、こんな空間に存在するのではないかと思う。野鳥の声が聞こえながら、陰っていく空間を見つめる。散々、否定してきたmeditationなるものと一致するのではないか。Meditation roomとして庭園を捉えることに、少なからず忌避の念を抱いてきたのに。逆張り的な心理をもう少し緩和させた方がよいのかもしれない。
残照と蒸し暑さに耐えながら、来た道を引き返す。相変わらず川は流れる。来た時よりも、ぐんと人影は減り、私は呼吸するかのように水面を見つめる。遠くに小舟が浮かんでいた。
きっと、精神の揺らぎも、あの小舟のようなものなのかもしれない、と思った。往々にして、人間は波に翻弄される小舟にたとえられるが、精神の動きそのものも、小舟になぞらえることができるのかもしれない。多少の揺らぎはあってしかるべきで、いちいち精神の動きを捉えていたら、疲弊してしまう。飛行機の揺れが、運航に支障を生み出さないように、小舟の揺れも、あって然るべきものであり、一つ一つを静観する必要があるのかもしれない。しばしば引用する宇多田ヒカルのインタビューにも、そのような旨が書いてあった気がする。気持ちの上下は一つの心象風景なのであって、そこに判断を入れる必要はなく、ただ受け入れればよい、というのだ。
水面に対して執着じみた愛があるのは、そういうことなのだ。私は文章を書いたり、写真を撮ったりして、精神の上がり方・下がり方を捉えている。水面を見つめること、表現すること。波に翻弄される私のあり方を、認めてくれる行為なのである。
夕刻の街をあとに、帰途につく。数年前は、修学旅行生として訪れた土地だったが、生活の延長上にあることが不思議で仕方がない。仰々しい特急列車に揺られずに、普通の列車に乗って、たどり着く場所なのである。人生の妙を見たような気がする。ちょっとだけ、自分の実存に対してゆらぎが生まれた時に、支えてくれる場所となったのだ。むかしは、非日常を味わうために訪れた場所だったが、今は生活の延長にある。観光地化されすぎていて、オーバーツーリズムが問題になっている場所だが、心の置き方によっては、その喧噪をもシャットアウトできるのだ、と気づいた。