Naegi

逍遥

水面とceroの音楽

 日付に対する愛着は、ある。七月の三連休の数字が好きだ。はっきりとした理由はない。推測するならば、夏に対する期待にあるだろうか。梅雨明けしそうな七月の高揚感が大好きだ。梅雨は嫌いだけど。あじさいの花は枯れる。花弁の水滴も消える。空の雲が一気に掃けられ、青空の存在感が増す。この季節が大好きだ。

 この季節といえば、ceroのsummer soulを繰り返し聴くのが毎年の恒例となっている。大学生活を彩ってくれた音楽については、散々このブログで書いてきたが、やはりceroは格別で、梅雨の終わりかけの気候にぴったりなのだ。本当に、ceroの音楽は梅雨空に輝く。ニューアルバム・リリースツアーに行ったので、その話をしたい。すでに最終公演まで終わったはずなので、もうよいだろう。感想を書きたくて仕方がなかった!

  インターネットを見ると、e o は大絶賛の合唱だった。インターネットで仔細に言語化した感想を見ないと、安心できなかった。言葉が追いつかなかった。エピグラフから、ceroの世界に飲み込まれてしまった。ボーカルの高城さんが言うように、この音楽は朝よりも夕方から夜が似合う音楽だ。最終面接の日にリリースされたので、行きの電車で音楽を聴きたい衝動を我慢して、終わった後にようやくにたどり着いたわけだ。感触が悪く、落ちを各章したので(実際、落選に終わった)、異世界へと誘ってくれるceroの音楽には感謝している。思考を止め、音楽に集中することができた。その後、郷里に戻る道でも聞いた。夢見心地で、最終面接のことなど忘却の淵に追いやられてしまった。

 プレリリースされた音楽については、すでに圧倒されていたが、アルバムではさらなる進化を見せ、実際の演奏はもっと、遠いところにあったように思う。Fdfの「flash, disc, flight」の歌詞が示唆するように、身近な風景から異界へと越境するような音楽なのである。鳥よけのディスクから、ファンタジーを生起させるなんて。単発リリース時の衝撃もさることながら、アルバムを聴くと、日常の断片から物語を織りなしていく姿勢がわかる。光るディスクは風に揺れる。ただ、それだけのことに、ひらめきを与える。

 こんな感じで、私は歌詞を中心にceroの音楽を楽しんでいたが、ライブでは言語と音楽の交錯に圧倒された。なんというか、ceroの音楽はポリフォニーという点に集約されていたはずなのに(前回のアルバムが、そもそも世界の複層性をうたい上げたものである)、今回はユニゾン中心である。音楽はどうなるのか、と思ったら、やはり多声的な音楽は健在だった。音のうねりに翻弄される2時間だった。

 水面を彷彿させる演出もよかった。前作が水流を描いたものだけあって、ceroの音楽は水とともにあるといってもよいだろう。川の流れ、遡上、鮭。今回は、どちらかといえば流れというものはなく、むしろ波紋のような音楽といってよいだろう。多発的に織りなされる音楽で、線的な流れはない。『文學界』2022年9月号で高城さんが言及していたように、ceroは線的な物語から、うっすら断片から物語をのぞかせる形式の変容させていったのである。プレリリースされていた楽曲群を聴くと、イマジズム詩を思い浮かべざるをえない。

 水面の波と、e o の物語が調和し、最高な空間が生まれていた。既存のダンス曲も交えていたので、ほろ酔いのなかで楽しい時間を過ごせた。とても満足。ceroの宇宙は広大だった。