Naegi

逍遥

図書館のソファー

 私の大学の図書館には、ソファーがある。机は併設されておらず、腰かけて本を読むためのソファーである。コロナ禍には、なぜかソファーが使用禁止となっていたが、最近復活した。昼過ぎの大学図書館は混雑しているが、いつもソファーは空いている。課題をするには机がなくて不便だし、本を読むために図書館を利用している人は少ない。大学図書館を一番頻繁に利用するはずの院生は、本を借りたら研究室に戻ってしまう。図書館の意義とは何ぞや。おそらく、本は実用性とかけ離れたところにある、と認知されてしまっているのだろう。実際はそんなことないのだが、昨今の動向を見るに、本を貸し出すところの図書館としての機能は等閑視されているようだ。在学六年目になるが、図書館の縮小ぶりは辟易するところで、目に見えるように機能を折りたたんでいることが分かる。新着の本棚に目をやれば、学術書というより新書ばかりであることに気づく。経費削減の憂き目を見ていることが分かるのだが、大学図書館は学術の生命線ともいうべき機関のはずで、そうした機能を失うことは、大学の機能不全を起こすのではないかと危惧している。大学には大学の事情があるのだろう。しかし、人文学を学ぶ身からすると、死活問題なのである。あと数カ月もすれば、私は大学を去る。この状況を見れば、研究者一本で生きていこうとは思わないし、博士課程に戻ろうとも思わない。研究は嫌いではない。日曜研究者になったら?と言われる。

 

 久しぶりに図書館で本を読んだ。ソファーの座り心地はよく、ずっとここに座っていたかった。しかし、脳裏によぎるのは論文のことである。前期が終わる前に、修士論文の一生分を書いてしまいたい。ソファーで本を読む時間を蝕まない程度に、読書を楽しみたいのだが、なにぶん締め切りが迫っているので、書かざるを得ない。ちなみに、読んだ本は、『群像』の最新号で、青葉市子さんのエッセイがよかった。青葉市子さんの音楽を聴くと、日々の喧噪を忘れられる。エッセイも同じく、日々の鬱憤を忘却の淵へと至らしめる効果がある。異界への誘い。寝ぼけ眼で、夢の話をずっと続けたい。思考をいったん停止して、今朝見た夢のことを思い出したい。

 こんなことを考えていたら、感覚的な次元で読書をすることをしばらくやめていたことを思い出す。最近読む本といえば、研究に関わる本ばかりで、そうでなくとも、スキャニング的に本を流し読みするばかりで、精読を忘れていた。論文的なことではなく、よかった表現をただただ享受したい。正直、最近の燃え尽き症候群感を鑑みると、もう私は文学研究ができない、と思う。議論したり、成果物を作ったりすることに対して、ひどく倦怠感を覚える。

 心がすり減っているのを感じる。齢二十四は、調子の変わり目だという。夜更かしが難しくなったし、脂っこいものも食べられなくなった。友人の話は本当だったようだ。二十四って、すごいよ、と口をそろえて言う。

 こうして文章を書くことで、なんとか孤独をやり過ごせている。社会人になった友人は、暇がないことで悩みが減ったという。果たして、中長期的に見て、ストレスが一気にあふれ出ないか、気になる所だ。それはそうとして、適度な負荷というのは大切なのだろうと思う。思い悩むのは、暇なとき。ある程度の制約のおかげで、余計な思考が阻まれるのも事実である。

 

 こんな調子で生きているので、記憶はいつだって情緒的だ。私の記憶は、音楽や色彩と共にある。日差し、空の色で夏を記憶しているし、湿度と水音で梅雨を記憶している。大好きな音楽も、思い出の中に織り込み済みである。例えば、秋の日にお出かけした時の記憶には、bonobosのGospel In Terminalがあるし、秋の静けさに沈んでいた時の記憶には、流線形のTOKYO SNIPERがある。学祭の思い出は、金木犀の香りと共に、フジファブリックの赤黄色の金木犀とともにある。もはや、大学時代は音楽によって記憶されているといっても過言ではない。

 そんな状況なので、Lampのアルバム『恋人へ』を聴く。ジャパニーズ・シティポップの隆盛のなか、海外で受容され、再輸入されていることは周知の事実だろう。多くのシティポップと同じように、ノスタルジーを誘う。ノスタルジーという意味では、シティポップという大きな文脈に回収してもよいかもしれない。でも、音楽性それ以上に、歌詞についても思いを馳せてしまう。「明日になれば僕は」の歌詞を引用しよう。

 

僕は名前のない季節に居座って

おもいのたけを投げかけてみよう

灰色の空の隙間へと

 

 

 このフレーズがとても好きなのだ。「名前のない季節」と「灰色」という表現が縁語のように畳みかける。曖昧さを許容しつつ、思いのたけを述べようとする実直さにくらっと来てしまうのだ。

 いつの間にか、シティポップという言葉に揶揄の意図が含まれるようになった。それは、使い古された商用音楽が暗示されるだろう。いわゆる「エモい」話に対する抵抗感に近い。ただ、一つ一つの楽曲を安易にシティポップとラベルを張らず、歌詞や音楽をじっくり聴くと、その「良さ」を再び発掘できるのではないかと思う。私がLampを好きでいる理由は、シティポップであるから、という理由ではなく、その日常の切り取り方がとても好きだからだ。

 きっと、この延長上に短歌への愛がある。短歌もシティポップ同様、「しゃれた都会人」の嗜むものとして消費されているきらいは否めず、昨今の短歌ブームを歓迎しない人も多いという。私は私で、短歌ブームに乗っかっている人間であることは否めず、文学をじっくり読んできた人からすれば、ややミーハー的かもしれない。でも、単なる「映え」的受容ではなくて、心を救い出すためのものとして受容している感はある。これを文学の解釈に当てはめると、不適当かもしれない。でも、趣味としての読書みたいなものを認めないといけないのかもしれない。

 振出しに戻れば、目的のないことを楽しんでもよいと思える日常がほしい。自己研鑽とかではなくて、本当に自分が楽しめるものを享受して、日々を過ごしたい。母校から、座談会の依頼が届き、生徒に向けて大学受験の話をしてほしいと言われた。私が精神を壊した大学受験について語るのか。ポジショントークになることを承知で、アンチ受験産業的な話をしようかな。大学受験合格を目的にしてはいけません。勉強自体を楽しむか、将来の夢に対して希望を抱くか。そうではなく、強迫観念に迫られて勉強するようでは、いずれ破綻します、とでも話せばいいのか。とりあえずいい大学に行こう!というのは一見すると正しいが、無責任でもある。確かに、就活を通して学歴フィルターの存在を実感したし、いい大学に行けば就活の難易度も下がるのかもしれない。でも、その先は?会社に入って働くことは幸せなのか。人によって違うはずなのに、なんとなくの雰囲気に乗せられてしまう。人文学の学びは、どちらかといえば、今まで敷かれてきたレールやルールについて認知し、世の中を見渡すことである。こんな状況で、無責任に「上を目指そう。頑張ろう」なんて言えるのか。事実、私は毎晩のように受験時代の夢を見る。大学院生になっても、なかなか修正されない心の癖はある。別に誰が悪いわけではないが、無責任にいい大学を目指させるような風潮づくりに加担したくない。

 現在、連絡を取り合っている相手が、かつて私の実力に合わない志望校を勧めたことを鑑みると、何も変化がないことを知る。きっと、変わるのは難しい。私だって、大学で身についた思考様式と切り離すことは難しい。だから、落胆はしない。でも、私はかつての自分みたいに、何も言わないわけにはいかない。実績のために、生徒の進路に干渉しないでほしい。受験産業の餌食にならないでほしい。

 この手の話はインターネットで散々なされて、もはや議論の余地なしのように見える。でも、現実世界で、未だにハッスルした受験の話を繰り広げているのを見ると、きっと生徒のクリエイティブティや自主性は刈り取られてしまうのではないかと思う。学生時代は長い。

規律によって抑制されたら、今度は大学に入ってから露頭に迷うことになる。

 そんなことを思うまえに、目の前の好きなことをやってほしい。もちろん、頑張ることを否定しているわけではない。ただ、目的なく過ごす時間を大切にしてほしいと思うのだ。図書館のソファーで本を読んだり、音楽を聴きながら目を閉じたり。そんな時間を持ってほしい、と祈りを込めて。