Naegi

逍遥

たわごと

社会人になると本が読めなくなるという本を、昼休みに読む。皮肉なことだ。私は意地でも本を読んでやる、という気持ちで本を読んでいる。大学生の時は、読書によって痛みが引き起こされていたが―言い換えれば読書は鍛錬の一部であったが―社会人になってからは、自己というものを矮小化しないために本を読んでいる。読書の意味合いが異なってきた。

 

社会人生活は軒並み楽しいが、それでも明確な規範・規則、不文律みたいなものに従って生きていると、自分が望んでいるものなのか、望まされているものなのか、わからなくなる。もちろん、大学生時代がまったくの自由であったかと言われれば、そうではない。ソーシャルメディアも立派な規則製造機だったから、よく他者の欲望に流されていた。

 

しかし、社会人は服装のコードから明確な上下関係といった、明白に、しっかりと存在する規範が存在する。人間関係も選択の余地が小さい(学校より、全然楽だし、職場の人間関係もすこぶる良好だが、大学時代とは異なる。

 

そういえば、社会人になると本は読めなくなる、の三宅香帆さんの本は、ソーシャルメディアにはない「ノイズ」の価値を示している。その意味では、社会人の方が良い「ノイズ」が多い。が、ノイズを「ノイズ」然としてしまうのは、良くない意味で惰性で生きてしまうこと、最適化されたタイムラインに流されてしまうことなのではないか、と思う。

 

だからこそ、本を読むのだ、と誓う。まぁ、書籍という媒体の特権性を考えだしたら、また違う問題を提起できそうなのだが…。ただ、ここでいう「本」とは『花束みたいな恋をした』に象徴される、文化的享楽の事なのだと思う。三宅さんの本でも、花束云々の映画が導入となっていた。

 

大学の教師も、よく花束云々の映画を引き合いに出し、「あれ見てとても悲しかったよ」と言っていた。文学の学びとは、ああした状況に抵抗する術を見出すことだ、と恩師は言っていた。私も、ささやかながら抵抗させてもらいます、という。

 

人の群れのなかにいるのも楽しいが、繭にくるまる時間も必要なのだ。

だから、同期同士のランチに姿を現さなくても、そういうものだ、と受け止めてね、と心のなかで呟く。(学生時代の癖が染みつき、なかなか人と四六時中関わる状況が慣れないというのもあるのだけどね)