Naegi

逍遥

音楽

大学時代を象徴する音楽を選ぶならば、間違いなくceroである。大学一年生の夏、狂ったようにceroのsummer soulをリピートしていた。大学で過ごす最初の夏に相応しい曲だった。

 

余談だが、教習所の送迎バスのラジオからsummer soulが流れた時、大学一年生の夏とリンクして感慨深かった。大学院一年生の夏だった。

 

大学に入学して間もなく、「魚の骨 鳥の羽」がリリースされた。あの時の衝撃といったら…。衒学的(ただし、ここでは肯定的な意味で使用する)なceroの多層な世界を垣間見た。わたしはceroの音楽を形容する言葉をたくさん持っていないのが悔しい。

 

ライブに行くたびに、ボーカルの高城さんの語彙の豊富さに圧倒され、音の洪水に飲み込まれてしまう。そういえば、味園ユニバースの最高空間で、tofubeatsとパソコン音楽クラブとの対バンやってて意味わかんないくらい最高だったな。大学時代に参加したライブの中で一番といっていいくらい。

 

とある授業のレポートで、ceroの歌詞について考察した。問題意識は、東日本大震災と表象の関係にあった。アルバム「マイロストシティー」は、架空の東京のカタストロフを描いたものだが、東日本大震災が意識されていることは明らかだ。死者の祝祭が描かれるかと思いきや、歌詞自体のフィクション性をメタ的に解説する方向へと収束する。多和田葉子の『献灯使』、いとうせいこうの『想像ラジオ』を参照しつつ、なにか論を提示できないだろうか?と考えたが、無理だった。あまりにも大きな問いだった。今でこそ新海誠作品の周辺で盛んに議論されるトピックだが、当時は先行研究をうまく探すことができず、挫折した。

 

そんな苦い思い出があるものの、ceroは学生時代ずっと寄り添ってくれた存在である。梅雨のじめっとした空気に聴く「遡行」は格別だった。現実から逃れるために、浜辺へと向かった時もceroの「orphan s」を聴いていた。卒業する友人と別れる時、「ロープウェイ」を聴きながらしんみりとしたものだ。

 

高校時代に夢中になっていたcapsuleの楽曲を聴くと当時の気持ちがありありと思い出されるように、ceroも大学時代の心象風景と不可分である。

 

5月、ceroが新アルバムをリリースするらしい。

心待ちにしている。学生時代のラスト一年をceroの新譜と過ごせることが嬉しい。もはや線的な物語からイマジズム詩の方向へとシフトしたceroの新たな局面を見たい。