少し前に、手負の人間となった。ほんの少し。
傷口が、普通の皮膚になるまでの経過を辿るのは楽しい。火山に似ているな、と思う。ドロドロのマグマが年月をかけて冷えてゆくようだ。血が出なくなり、やがて皮膚へとなっていくさま。血とマグマとアナロジーとか、マグマを血のメタファーとして使うことってあるのか。私はその例を知らないが、きっとあるのだろう。血潮、とかは似ているかもしれない。流れと血流。そんなことを思ってしまう。
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プラスチックの膜と梨木香歩は譬えた、人間と人間を隔てる幕のようなもの。エッセイ集の『不思議な羅針盤』に収録された文章は、筑摩書房の教科書に収録されているようだ。(余談だが、私は小学生の頃に使用していた教科書で梨木香歩の文章「ブラッキーの話」を読み、すっかり梨木香歩の文章に吸い寄せられてしまった。きっと、この文章から梨木香歩のエッセイを購入する高校生も多いのだろうな、と思うとなんだか嬉しい。)
それは概念の儀礼的無関心にも近いのだろう。が、梨木のエッセイで強調されるのは、こうした膜から出る瞬間である。ちょっとした出来事が人と人の膜を突き破るのだ、と。
いま、とても悩んでいることがある。それは、このような「膜」をどのようにチューニングすれば良いか?ということである。程度を調節することが下手くそで、かなり振れ幅がデカい。心理テストで外向性を答えるのは至難の業だ。
話し過ぎないことはよいが、話さなければ場が冷えてしまう。必要以上には話さず、それでも場を回していく、という加減がわからない。
人との垣根を容易に超えてしまうのは大学時代までの特権だよな、と振り返る。特権、と表記したが、良いのか悪いのかはわからない。
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働くのは面白い。より引いたところで「働いてんのウケる」と思ってしまうところがある。ところで、組織の潤滑油に…なれているのか?わたしは!
組織の「文法」にしたがって作業を行うのが楽しい。人文学の研究が暗黙の了解を顕在化することであったことと比べると、あまりにも顕在化している。明らかすぎるのだ。そうはいっても、「文法」は万能で絶対的なものではなく、解釈および改善の余地が残されているということにも気づいてきた。
休憩時間に、多和田葉子の小説を読んでいる。内容は掠りもしないのに、現在の仕事内容みたいだな、と思う。よく知られたことだが多和田の小説は言語を越境した洒落が連なる…一見するとナンセンスな文字の並びも、見方を変えれば輪郭を持ってしまう!というもの。言語がある種のルールだとすれば、組織のルールもそうといえよう。ある言語で意味を持ち得ないものが言語を変えたら単語になるように、ルールもまた、組織によってアクティベートされているのである。
組織のルールを学んでいると、カズオ・イシグロの『満たされぬもの』やカフカの『城』を思い出す。ただし、ここではカフカの作品に含まれる官僚主義への批判を言いたいのではない。組織の中での了解は、アウトサイダーにとっては奇妙な文学となる。物語を読み進めれば、不可解な文章が動き出してくるように、組織のルールやシステムもまた、しっかり動く出すのだ。
これにはかなり驚かされた。文学研究って、本当に役に立つ。預かり知らぬところで実をつける。思わぬ楽しさを教えてくれる。それはそれで良い。世界の色彩をつける権利があるのは、いつだってわたしなのだ。