Naegi

逍遥

逍遥と越境のエッセイ

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雨上がりにうんと晴れた日。雨の上がったあとがいちばん空気が澄む。太陽を照射する湖面もよかった。ここ一番のきらめきだった。

 

ようやく風邪も治って、外を逍遥するとなると、歩く意味をずっも考えている。修論のストレスを解消するために、お気に入りのケーキ屋に足を運び、外で煌めきを捉えることに最高の幸せを感じ、なぜ人をは歩くのか?歩かないことは不幸なのではないか?と考えを膨らませる。

 

今年のベスト本はハン・ジョンウォンの『詩と散策』だ。詳細は以下の書誌情報を参照されたい。

http://www.kankanbou.com/books/kaigai/kaigai_essay/0560

 

書肆侃侃房のnoteから、試し読みもできる。

https://note.com/kankanbou_e/n/ne6b7f6b465f3

https://note.com/kankanbou_e/n/nb1794bb351a6

 

散歩して肌で感じる季節の移ろいを完璧に捉えている。私だったら、煌めきという言葉で茶を濁すところなのに。著者は詩を引用して、その機微を表す。私はこのような表現者に対して、心の底から尊敬の念を抱いている。梨木香歩さんしかり、レベッカ・ソルニットしかり、博覧強記でありつつも、決してアームチェアに寄りかからない姿勢がたまらなく好きだ。自然を歩き、思索する姿勢に敬意を抱かざるを得ない。この延長上で、私はネイチャーライティングに関心を持っているのだが、目下の研究テーマではネイチャーライティングまで考えが及ばないかもしれない。いや、山岳文学まで裾野を広げれば不可能でもないが、岩肌をクライムするよりも、森林や草原の中を逍遥するエッセイや物語を読みたい。

 

病に臥せていたとき、宗谷丘陵や礼文・利尻の緑をひたすらスクロールしていた。あの緑が欲しい。行きたい。交通費を軽く計算して、来年とかのタイムスパンで行くのは難しいと判断したけれど、いつか絶対行く。稚内に行って、宗谷丘陵の白い道を歩く。風車を見る。海を渡って、利尻岳をみて、礼文の花を見たい。最低でも三泊四日か。休みが取れるといいな。海外旅行よりも、まずはこの旅行を実現させていきたい。来年は銀の匙聖地巡礼という一大イベントが待ち構えているので、悠長に待ちたい。

 

可能なら、MONO NO AWAREの出身地、八丈島にも行きたいと考えている…島に行きたい。旅に出たいよ…。私はたぶん、移動というテーマにずっと関心を寄せているのだと思う。幼い時には世界の国旗や民族衣装の本を好んで読んでいたし、昔から好きなテレビ番組は「世界の果てまでイッテQ」だし、小学生になって地図帳を得てから水を得た魚のように生き生きとしていたし、ノートに世界各国の文化について纒めていたし、高校の時は世界史の、特に「ヒトの移動」に関心を寄せていた。(こうした事情を傍観者として学べる、というか当事者として捉えなくてすむ状況の、特権性については

真摯に考えなくてはならないけれど。)私淑する作家の梨木香歩さんが鳥の「渡り」を繰り返し描いてきたからか、越境する移動について、常日頃から考えてきた。

 

安西冬衛の一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」の「てふてふ」と梨木の「渡り鳥」は似ているかもしれない。実際、梨木のエッセイにおいて、窓に張り付いていた蝶に気づいた、という描写がなされている。…安西冬衛の一行詩については、地政学的観点からの論考を読み、そうした解釈ばかりしていた。かが、軽々と境界を超える動物の「渡り」やその表象については、改めて論を加えねばならない、と思う。梨木は師岡氏との往復書簡において、渡り鳥の特性について示唆的なことを言っていた。渡り鳥は根無草のように「根ざす」ことはできないけれど、境界線を超えて物事を見渡すことができる(うろ覚えなので、再度確認したいが…)ということ。

 

ただ、これが越境「者」になれば話は異なって、所属もなく、境界の意味づけに翻弄されてしまうのだ。「渡り鳥」は越境者のある種の目指すべき?というか心の拠り所としての、象徴かもしれない…なんて考えると、越境者のアナロジーとしての「渡り鳥」や「てふてふ」は、エンパワメントする役割もあるのか…と考えていた。境界の意味づけを軽々も超えていける動物に憧れるのかもしれない。二足歩行の我々は、自ら飛行することはできないのである。

 

と、飛行について考えると、再度、歩行という営為について考えなければならない!とも思う。レベッカ・ソルニットのWanderlust、修了までに読破しようね。

 

こうした話はやや抽象度の高い事柄といえるけど、わたしの研究内容は具体的な移動の話。探検記や旅行記を渉猟して、どうにかこうにか論を組み立てる。修論は書いていて、辛いけど楽しい。私は移動に関する話が好きなのだな〜と安堵もしている。 

 

修了までに、梨木の描いた「渡り」についてちょっとした論考を書きたい✍️もちろん論文はしばらく書きたくないので、アカデミックライティングとして書くつもりはない。エッセイ的論考を書きたいので、noteにでも投稿しようかな。noteでいいのかわからないし、zine作ってもいいかもしれない。とにかく、私は移動と越境について、「渡り」という観点で考える必要がある。それは、比喩的な渡り鳥もそうだし、実際の渡りもそうだし、ソルニットのエッセイのように渡りについて思索したい。

 

奇遇なことに、寺尾紗穂さんのEP「珈琲」(2013)を聴きながら、移動について考えている。寺尾さん自身、移民について本を出しているし、修論が落ち着いたら寺尾さんの新刊を読みたい。

 

EP収録曲の「ブラジルへ」がとても好き。

「いま花束に木の実を忍ばせよう 赤い木の実をブラジルの大地に植えてあなたは毎年何を思うだろう」という歌詞が良いのだ。植物の芽吹きは、人間の関係性に構うことがない。これは境界の意味づけを無効化する動物とも同じことが言えるだろうが、動植物の越境とパラレルな人間模様について、ずーっと考えている!

 

こんな状況だから、風邪でどこにも行けない事態がいかに辛かったか、わかるでしょう。