Naegi

逍遥

蜃気楼

 

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憑き物が落ちたとか、そんな表現がある。

大学入学後、高校時代の恩師にそんなことを言われた。元気そうでなにより、とにっこり笑っていた。

確かに、あの時代は何をするにも鬱々とした気持ちになっていたし、理解者はいないと思っていた。

 

鼻風邪をひき、復活した。以前よりも120%くらい元気だ。憑き物が落ちたのかもしれない。暗闇のなかで小躍りするくらいの元気が復活した。いまのわたしは、理解してもらおうとする欲求を捨てるモードに入っている。分かり合えないという前提を受容すること。これが肝要なのかもしれない。

 

言葉が上滑りする。鬱々としていた時は、皮肉なことに嬉々として文章を書き連ねていたのに、元気になった途端言葉が出なくなる。往々にして、文章は苦痛から生まれるもの、とか言われる。文章を書くことはセルフカウンセリングなので、元気がない時の方が生き生きとしている。なかなかうまくいかないものだ。

 

それでも、わたしはわたしの見たい景色とか、表現したいものが見えてきた気がする。地平線に繰り出した朝日といえばいいのか。ほんのわずかながら、光が見えてきた。

 

レベッカ・ソルニットの『迷うことについて』を読んだ。そこで論じられていた、距離の問題について思考を巡らせていた。山の遠景の青は、近づけば消滅してしまう。かと思えば、また遠くにある山が青々としているのだ、とソルニットは述べていた。

学校の登下校時に、山の青に思いを馳せていたことを思い出す。わたしの地元は、山に囲まれた地方都市で、冬は遠くの山脈の稜線が見えていた。冬のホームルーム、鬱々とした気持ちでプリントを回しつつ、遠くの稜線に視線を送っていたことを思い出す。あの情景は、中学時代の心象風景である。

 

結局、幻想なのだ。願望というものは、叶った途端に消滅する。まるで蜃気楼を掴むような感覚である。ソルニットの比喩は、願望というものの際限のなさを的確に表していると思う。言い得て妙だ。わたしは、往々にしてambitiousと形容されるが、そろそろ足元を見た方がいいのかもしれない。遠くの山を見るより、近くの木を見た方がいいかもしれない。わたしは大きく物を考える傾向があり、「木を見て森を見ず」ならぬ「森を見て木を見ず」なのである。(実際、文学作品の解釈もこの傾向があり、よく指導教員たちに指摘されてしまう。)もう少し、自分の眼前にあるものを大切にした方がいいのかもしれない。果たしてソルニットの意図に適合しているか怪しいところだが、ひとまずわたしの原体験を振り返って、反省をする。

 

そろそろ、別れだ!別れはいいこと。そういえば、遠距離の愛?友情?についてもソルニットは言及していた。どんなに近づいても、二人の間には距離があるのだから、距離が深めてくれる愛がある。青でいることで保ちうる愛がある、というのだ。家族との関係性がそうだと思う。離れたからこそ得られた光はある。親友も遠い街に住んでいる。離れても変わらない友情はある。離れているから、光っているのだ。

 

これも、分かり合えなさの議論に通じると思う。分かり合えないから、個を確立できる。個を尊重できる。同化は恐ろしいことだ。垣根を巡らせること。境界線を引くこと。梨木香歩のエッセイに感化され、いつも境界について考えていたが、ソルニットと梨木のエッセイが接続し、また輝き出す。稜線、垣根。一見すれば障壁に見えかねないものを愛すこと。これが、愛において重要なのかもしれない。