今日は久しぶりに気温が高かったので、
薄手の花柄のシャツを身にまとい、窓を少し開けた。
春の匂いがした。その中に含まれる花粉は
どのくらいなのだろう。
それは5分後に出たくしゃみが教えてくれた気がする。
春が始まった。
サニーデイ・サービスの新曲が春満載だったので
いっそう気分は華やいだ。
「春」のつく曲を検索しては聴く毎日。
never young beach - 春を待って (Live at NHK Hall
ちょうどこの時期に聴きたいよね~~~
陽だまりの中で聴くネバヤンほど心地よいものはない。
ホントだったらネバヤンの3/18行きたかったのだけれど
こんな時代だから仕方ない。
春らんまん、も良いよね
はっぴいえんどの春らんまんもこの季節に散歩しながら聴きたい。
歌詞を読むと日本語の美しさに気づかされるよね。
身近にある植物の名前を知りたいと思うような、そんな気持ち。
春はアコースティックな音楽を聴きたくなる季節でもある。
アヤノは春。(春はアヤノ、でもある)
CD大賞おめでと~~(;_;)
アヤノの花ひらくまでを聴いて散歩する午後は至高のひと時。
大学通りの桜を見ると蕾は膨らんでいる。
大学通りは夏の日差し、ならぬ春の日差しってやつです。
花弁がうっすら見えているようなとき。
花ひらくまであともう少しだと気づく。
春の音楽は植物の名前が多く登場しており、
植物園でも作ってしまおう!という気分になる(嘘)
そんな植物への憧憬はきっと梨木香歩の随筆から生まれたのだろう。
久しぶりに梨木香歩のエッセイを読むことにした。
かつて筆者が英国で下宿していたときの回想を混ぜながら、
英国を再訪するエッセイである。
女主人のウェスト婦人の
「理解はできないが受け入れる」という考え方に
はっとさせられる。
この下宿にはボスニア難民やナイジェリア人など様々なバックグラウンドを
持つ人が住んでいたこともあって異質性というものに驚かせられる機会も多々あったが、ウェスト婦人は決してボーダーを引いて拒絶することはなかった。
最後の手紙に一抹の悲しみを覚えた。
同時多発テロ後の世界がひどく憎しみに満ちた世の中になってしまったこと、そして異質なものに対して不寛容になってしまったことを嘆いている。
この異質さを拒絶せずに、受け入れる社会はいつも、余裕のある社会でしか成立しないものだ。
世界はその寛大さを無くし、ますます余裕を無くしてしまったように思えて悲しかった。
その負の連鎖は今にも至るのだろうが、どうか社会全体で差異による悲劇がなくなりますように、と願ってばかりなのだがいつまで経ってもそれは机上の空論なのである。
これは2019年に出版された梨木香歩の最新のエッセイ。
今までの発表されたエッセイの総集編のようなものだろうか。
神学のこと、カヤックのこと、植物のこと…
筆者の興味の裾野は驚くほど広い。
決して自分語りに陥ることなく、客観的な視座を忘れることなく
みずみずしい筆致で紡がれたは読んでいて浄化されたような気分になる。
ウィリアム・モリスのアイスランド紀行に寄せられたあとがきが印象的だった。
ラファエル前派展でフィーチャーされたモリスだが(なおモリス自身はラファエル前派の画家ではない)モリスの文筆に関してはあまり取り上げられる可能性は少ないのではないだろうか。
この、恐ろしいほど美しいというモリスの感想を実感を持って今に伝えるのが
梨木のあとがきなのだろうと思った。
北極圏の街は雪とカラフルな家のコントラストが美しいものの、空恐ろしい。
背後に迫った雪山のせいだろうか?
スバールバル諸島の写真を検索しては恐ろしくなるのはこのせいであろうか。
死と隣り合わせの恐ろしさ。
これを伝えているのが、モリスの紀行であり、梨木のあとがきである。
そして欧州でイスラム排斥の機運が高まった時に、標的にされないよう公共交通機関でヒジャブを外した女性に、
「隣に寄り添うから、ヒジャブをつけて」と助け船を差し出したというニュースが
ここに描かれているが、その草の根的な優しさ、というものも印象に残った。
そこには空虚な理想などなく、真のやさしさ、慈愛が描かれているようにも思った。
ー
恐らく交換留学の話もなしになりそう。
5年で卒業するものだと考えていたから、そろそろ
就活についても始めないとなあとか思いつつ何もせず
こんな生活やめよ!と思うものの、この生活が一番楽しいのだ。
残りの春休みでやること
・髪を黒くする
・マッシュにする(失敗可能性高い)
・須賀敦子のエッセイ読む
・スラブ語について知る
この辺かなあ
守りたい、この生活。
文化は大切(主語がデカい)
今回はここまで。