Naegi

逍遥

非常時をフィクションはどう語りなおすかーceroの楽曲をもとに

最近、本屋の売り上げが伸びているというニュースを聞き、

改めて文化の持ちうる力を実感することになった。

 

最近、Amazonを覗いたらカミュの「ペスト」が在庫切れになっているとのことで

発送まで10日ほどかかるとのことだった。

疫病と人間性を主題とした文学作品、今だからこそ読みたいものねえ。

私はペストを積読のままにしているけど、読もう。

ボッカチオの「デカメロン」もペスト禍を逃れた時の話だし、

文化を紐解けばそこには疫病があるってことか。

そういえば、某大学の世界史ではまさに人と移動というテーマが

頻出だったから必然的にペストの広がりというのはよく触れた記憶はある。

極東で広がり、モンゴル帝国によって交易が活発になると同時に

疫病も蔓延したというアレ。

勉強したときは、そういう事実として受け止めていたが現代にも

同じような状況が起きるとは予想だにしていなかったな。

 

パンデミック、怖い。

デカメロンみたいに猥談でもしようか?(違う)

今日は文化の話をしよう。

 

いや、文化?話広すぎん?

というわけで音楽について語りましょうか。

 

ライブの中止が相次ぎ、小さなライブハウスは経営の危機に瀕しているし、

音楽で食べているひとも苦境に置かれている。

あーーー心が痛い。痛いよーーー

あくまでこっちは娯楽として音楽を享受しているのであって

もう無力だ、、、と心を痛めていたわけですが、

先日ceroの所属レーベルであるカクバリズム

有料ライブ配信を開始しました。

 

natalie.mu

 

これです。

 

視聴するのにあたって、1000円。

投げ銭システムもあるので、500円単位でアーティストを応援

できるという仕組みだった。

 

金曜日の9時からということで急いでカレーを食べ終わり、

パソコンとスピーカーを用意して待機。

一曲目のYellow Magusからもう涙出てきた。

 

もちろんパフォーマンスは最高なのは言うまでもなく、

やはりこれをお金を払って視聴できるということの満足感は

思った以上のものだった。

 

2月下旬、イベントの自粛要請が出されてからというもの

アーティストはオンラインでライブ配信を無料で行っていたが

どうしてもそこには背徳感があった。

本来であればお金を払って楽しむものなのになぜ、無料で

楽しめるのか?と。

 

いや~ceroの取り組みは良いと思ったので、他のアーティストも

ceroに続けて有料配信を続けてほしい、

まあ有料配信がないアーティストもCDを買うなど

支援の形はいろいろあるので、お給料入ったら好きなアーティストの

楽曲とグッズを購入したいな。

 

さて、今回はceroの音楽を考察してみよーというゆるっとした記事なので

さらっと読んでくれたらよろこびます。

 

今回のライブ配信では、Contemporary Tokyo Cruiseのツアーのセットリストが

ぎゅっと凝縮されてお届けされたわけだが、本楽曲は

2012年にリリースされたMy Lost Cityというアルバムに収録された曲である。

 

cero-web.jp

このアルバムの表題はフィッツジェラルドのMy Lost Cityから着想を得ている。

エンパイアステートビルから見下ろす恐慌後のニューヨークが印象的だが、この楽曲群

もある種のカタストロフィーに見舞われた都市の姿を彷彿させるという点ではオーバーラップする部分もある。

ビジュアルも萌黄色の霧に包まれた東京らしき都市の姿であり、失われた都市としての

東京が描かれている。

 

このアルバムは洪水に見舞われたもう1つの東京を描いているのであり、

ここには震災の影響が見て取れる。

(「マイ・ロスト・シティー」とか聴いてみるとそれは一目瞭然、リリースした年代も考えると余計に)

震災というテーマを東京という場所に置き換えて描かれており、

日常と都市の脆弱性という主題が見える。

以下楽曲の紹介をしよう。

 

「大洪水時代」では

東からもくもくと吹き出した積乱雲が押し流されて

長い雨で東京の街並が海になった

窓の外 水平線が引かれ 誰もかもがヒキコーモリです

あの娘 どこへやら

偽物の花を買って海に投げた

中央線がしぶきを上げた

旅に出ましょう 今こそその時

全てを捨て置いてお別れの挨拶どころか

まだなにも始まってはいやしないぜ

波が打ち寄せて 何かの燃えかすが 窓にはりつく

過去も未来も押し流されて

意味を失くした いくつかの約束が流れついた

黒いしぶきに足を浸して5つ数えて

やっと1人になれた 今、何かが始まった?

後戻りできないさ… どこまでも海は続いて

風がふいた…その時  *1

 

突然、洪水に見舞われた東京の姿が視覚的にも感情的にも

訴えてくるような歌詞である。

 

そして、前述のComtemporary  Tokyo Cruise は祝祭的な雰囲気で歌われているものの、

歌詞内容を見ると以下のようである。

 

幽霊船に揺り揺られ揺られ

辿り着く波止場はどこでも

ララバイ 奇妙な歌声に誘われ

暗礁のなかへ

(中略)

水平線が目の前に迫る 景色は変わっていく

サーチライト 照らし出す闇には

あるはずのない東京の摩天楼

いかないで光よ わたしたちはここにいます

巻き戻して       *2

 

これは洪水の後の祝祭のような音楽ではあるが、

歌詞は事態の不可逆性を悲しむようにも聞こえる。

最後、大合唱が逆再生されるのだが、声なき者の叫びのように聞こえる。

忘却される者と復興される街。その対比がこの楽曲には込められているようだった

 

街と街のあいだに

電車が走っている

家の中には 人々が

それぞれの灯り点けて 暮らしてる

 

それで一日は

朝と昼と夜があって読みすすめなくても

進んでいくと思ってた 

だけど

ぼく、まちがっていた

ぼく、まちがっていた

ぼく、まちがっていた

ぼく、まちがっていた

 

*3

 

優しいピアノとチェロの音色が印象的なスローテンポな曲だが、

ここには日常生活の優しさが印象的に描かれていると同時に、

ふだんはこの当たり前が流されているかのように、三拍子の音楽は伝えている。

 

しかし、急に音楽はペースを落とし、

「ぼく、まちがっていた」と何度も繰り返す。

ここの部分は震災を経験した聴き手には大きな共感を得るところではないのか。

 

そして、アルバムの最後に収録された「わたしのすがた」では

確信的なことを言う。

 

あーなんか いっさいのがっさいが

元通りになったようなこの街

あーそうか ほんの一年くらい前は

なんつーか 眠り込んでいたんだな

マイ・ロスト・シティー

あの日遠くから見ていた東京タワー

登り眺めたこの街に違和感

なにもかわらんとこが

なにより不気味で Feelin' down

シティポップが鳴らす その空虚

フィクションの在り方を変えてもいいだろ?

ときにHppyend

あるいは Surf' up

脆いからこそオモロい

(中略)

海がでてくる夢をみていた

あるはずない みたことない

誰も知らない パラレルワールド*4

 

ここに描かれているのはフィクションではなく、現実ではないだろうか。

これが発売されたのは2012年の10月。

恐らく震災から1年経ったころの所感が反映されているのだろう。

きっと東京の姿を見ても1年前と変わらず、同じ姿が広がる。

ここは前述のフィッツジェラルドの原作にあるエンパイアステートビル

姿を見る部分とイメージが被る。

 

カタストロフィーを一部的ではあるが経験したはずの街が、今やその証拠は

すぐには見つからない。

シティポップは往々にして街を美化して歌うが、都市の礼賛も

どこか空虚に聞こえる。

ならば、自分たちの音楽ではあるはずのない街をフィクションとして描きだし、

その不気味さの正体を突き止めてやろう、という話なのか。

この歌詞の途中、「Comtemporary Tokyo Cruise」のリズムが

再現されるが、その不可逆性と忘却をここで改めてフィーチャーしているのである。

フィクションだから現実から遠ざかるのではなく、ここでフィクションの洪水に見舞われた東京を描くことで、風化されつつある震災を描いたのではないか。

 

しかし、この楽曲群の正直な感想としては、

直球すぎてある意味炎上可能性をはらんだ曲ではないだろうか?というものが

第一に挙げられる。「不謹慎だ」とラベリングされる可能性だ。

 

事実、震災後は津波や洪水を彷彿させるような描写を含む作品は

自粛されていた。

例えば、クリント・イーストウッド監督の「ヒア アフター」は津波の描写が

含まれているため日本での上映は中止になった。

ja.wikipedia.org

崖の上のポニョも自粛されてた、という都市伝説は流れていたような

気もする。(記憶も曖昧だが)

 

2012年というタイミングだからこその作品なのか、しかしながらまだ

あの日の経験はまだ、過去の出来事として捉えられない人も

多くいたはずの年だ。

 

しかし、ceroはこう語る。

www.cdjournal.com

 

この記事から引用すると、

――震災が起こる前に歌詞と曲ができてたという話ですよね。ちょっとスピリチュアルな話ですけど、音楽が先を行くみたいなことってあるじゃないですか。「大洪水時代」を作ってみて、どう思いました?


高城 「ほんと、完全にスピった話になりますけど。その前に〈大停電の夜に〉があって。普通にロマンチックで、住んでる東京に近いんだけど、パラレルな、ちょっとだけ違うものが混ざってるみたいなものを作るのが好きだったんです。箱庭の配置を面白がって変えたりしてたことが現実っぽいものになっちゃって。計画停電とかやってるときに、この曲を聴いてたみたいなツイートしてる人がいて、“現実味を持って聴かれる曲になったんだな”とか思って。ちょっとしたSFみたいな曲だったのに、現実が寄り添っちゃったなと。(震災前に)〈大洪水時代〉もあったし、〈船上パーティー〉もあったんですけど、アルバム出すときに“震災のことを受けてできたアルバム”みたいに言われるのがなんかイヤだなと思って。でもそれから逃げて、手を入れて変えちゃうのも何か違うし」


――このままでいこうと。

高城 「はい。ちょっと話が遠くなってるような感じするんですけど、こないだ荒内くんが話してたことで。大林宣彦監督の『この空の花』っていう映画を観てすげー感動したんです。花火と爆弾の近似性みたいな話をしていて。打ち上げるか落とすかの違いで、構造も近いけど似て非なるものっていう。で、うまく説明できてるか分からないですけど、自分たちは花火を作ったんだと」


――なるほど。

高城 「地震を爆弾と捉えていいのかわからないですけど。三尺玉が打ちあがって喜んでいる人もいるけど、空襲を体験しているお婆さんとかはいまだに怖くて花火を見られない。そういう人もいると。このアルバムもそういうふうな聴かれ方をするかもしれないなって怯えたりもするんですけど、花火を作る人はそんなこと言ってられずに毎年作るわけで。感じ方はそれぞれですけど、自分たちはそういう感じで、ひとつ花火を作り上げたという」*5

 

つまり、このアルバムの曲は最初から震災を意識して作られなかったということである。妙に現実とオーバーラップしたからこそ、確信犯的にこのアルバムがリリースされたわけであるが、ここにはフィクションの可能性が示唆されている。

 

ここで引用されている映画にあるように、

ある人々にとってはトラウマを引き起こすトリガーとなるような題材も

扱い方によっては、多くの人の心を揺さぶる芸術作品へと昇華できる、という

可能性だ。

 

そして、インタビュー後半でも興味深いことが語られている。

 

――最後の「わたしのすがた」だけちょっと毛並が違う曲で。アルバムは意外な終わり方をしますよね。

高城 「本編は〈さん!〉で終わって、少し曲間をとって。ボーナス・トラックじゃないけど、違和感があるもので終わるというイメージはありますね。エンドクレジットみたいな感じはあります」

――そうした意図は?

高城 「他の曲はパラレル・ワールドというか、夢っぽい世界みたいな感じで書いてるんだけど、この曲だけ現実の目線というか。パッと目が覚めて、長い変な夢見てたなーってぼんやりしたまま街に出るイメージ。質感を変えたいというのがあったので、この曲は唯一荒内くんがミックスしてて、音的にも段差をつけました。恐いんだけどパラダイスのような世界が終わって、はぁーみたいな感じにしたかったんですね」

*6

 

ここのアルバム全体で語られた洪水の東京というものはフィクションであり、

妙な夢だと納得しながらも目覚める夢、というような曲として

「わたしのすがた」を置いたとのことだ。

 

ここで、示されるのが現実と少しずれるような、でもその描写から

現実のある出来事を連想させるようなものを示し、メッセージを込められるのが

フィクションというものだ。

 

先述の通り、震災後の自粛ムードは文化の分野にも波及し、、震災を連想させるような作品は忌避された。

 

それは直後の話であり、時間が経つにつれ、震災に何らかの形で影響を

受けた作品は増えた。その一端をなすのがこのアルバムであろう。

架空の都市で架空の災害を描いたものだが、作り手であるcero

聴き手が震災を連想することを想定はしている。

その想定を前提として、ある種の物語として別の世界を成立させることで

震災というセンシティブな題材を芸術品として仕上げているのだ。

先ほどのインタビューの言葉を借りると、爆弾を花火として描いているというわけだ。

 

これも非常事態とフィクションの1つの関わり方だと思う。

震災を直接的に描く作品も今後さらに増えるだろうが、

このように架空の災害を描くことで震災という出来事を

捉えなおす芸術作品もきっと生まれるのだろう。

 

多和田葉子の「献灯使」も架空の土地を題材としているものの

震災後のディストピアを想像させるし、後者に分類される作品のように思う。

ja.wikipedia.org

 

 

この時期だからこそ、この作品群は改めて読み直したいし、

ceroの楽曲には改めて考えさせられる。

 

なんと冗長な記事となりましたが、

今考えていることはぶつけられました。

別に学術的なことをいうわけでもなく、個人の所感を書いているだけなのに最後まで目を通してくれた人はありがとうございました。

 

それではまた今度。

疲れたので寝ます。

 

 

 

 

*1:cero「大洪水時代」より

*2:cero「Comtemporary Tokyo Cruise」より

*3:cero「roof」より

*4:cero「わたしのすがた」より

*5:この記事内容は上記インタビューより抜粋したものである

*6:同上