余白を大切にしたいと言いつつ、余白を大切にできず、ブログ執筆まで手が回らなかった。
院生生活恐るべし。常にタスクがある状態なので、凝れば凝るほど生活に余白がなくなる。
この1ヶ月、とりあえずタスクをこなし、時として友人と語りまくる…という忙しくも楽しい日々を過ごした。しかし、時は過ぎるばかり。
時として、歩みを止める必要があるのだと痛感した。今日は早めに研究を切り上げて、ゆっくり湯船に浸かった。部屋の掃除もした。
こうやって、なんとか心の安定を保っているのかもしれない。
大きな波はないものの、さざなみはよく立つ。
そんな日常である。
昨日は全てがうまく行かない日だったし、
あー、じぶんなんてだめだぁって久しぶりに自己嫌悪に陥った。
でも、大丈夫。いまはもう元気。
森に行ったから。森に行きさえすれば大丈夫。
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今日はよく晴れた一日だったので、近隣の森に散策に行った。よく整備された道のなかで、腐葉土を踏みしめる。ああ、これがほしかった。陽の光、鳥の声。森の近くには、小さな池があり、水面の煌めきも見える。そよ風が森を揺らす。
森は生きている。
そういえば、シェイクスピアの『マクベス』において、「森が動く」という不吉な予言があった。
森が動き、破滅へと至る。
森が動いている、と感じることはある。
それが夜の森の場合、森一帯がひとつの怪物のように見える。
大きな塊としての森。風に揺れる音も、咆哮に聞こえる。森林が近くになければ、「森が動く」を実感するのも難しい。
けれども、陽の光をいっぱいに浴びた昼の森は、生命に溢れている。
森の空間が心地よくて、出るに出られなかった。
木登りしたら、どの景色が見えるのだろうか。
頭上に見える葉から漏れる日差し。
これは葉漏れ日という表現の方が適切なのかもしれない。
今まで忘れていたのだが、案外森は生活の近くにあった。いつも過ごすコンクリートの研究室も、森に近いところにある。いままでなぜ森に行かなかったのか。すこし森への未練を思いつつ、これからも森の中で思索に耽ろうと思う。梨木香歩さんのように。
久しぶりに、梨木さんのネイチャーライティングを読み直そうと思う。
鳥の声を聞きながら、カヤックで水面を揺蕩う日々。山を歩く日のこと。自然の中で、自在に思考を手繰り寄せる。そんな梨木さんの暮らしが憧れだ。密度の高い亜熱帯の森から、ほどよく光が漏れゆく針葉樹林まで、自在に歩いていく。私は、それを読書という体験で追っていく。
読書は、森の中で歩みをすすめるような体験なのである。
ソローのような生活、までは行かなくても、
日常に森林を取り入れたい。
私が好きな記事。
https://note.com/minotonefinland/n/n157f16311476
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闖入者。
静寂は突然破られた。
カラスが森林に侵入した。
羽音が聞こえたかと思いきや、カラスの通った後には枝葉が舞い落ちる。
ああ、こうやって森林は成立しているのだ、と思った。私はここにお邪魔しているのだ、闖入者は私だ。
そんな思いがふっと湧き、森を出た。
近くでは学生たちがアカペラを練習をしていた。
連続する場所のはずなのに、断絶する。 森林は近くにあるようで、遠いのだ。
一歩足を踏み入れば、人間は闖入者になってしまうのだ。