Naegi

逍遥

余白を語りたい深夜2時

研究が深夜に捗ってしまうため、日が高く登る頃に目が覚める。

 

朝の起床を強いられる時、秋晴れの朝の眩しさを知る。これほどの煌めきを毎日失っていたなんて勿体ない。そんな気持ちがふっと湧いたものの、どうせ社会人になった嫌というほど朝日を味わうのだろうし、研究の成果と比較すればまた、それほど大きな損失ではないだろう。

 

そんな言い訳をしながら、昼夜逆転世界を享受する。最近の睡眠不足はどうやら自分の「おしゃべり」人間気質に由来するのではないか、と考えじめた。

 

生まれつき、「口から出まかせ」人間だったわたしは、適当な話を適当に流し、適当にまた話を拵える…という無限のプロセスをこなしている。

 

おしゃべりが止まらない。対人間のおしゃべりのみならず、一人である時の考えも止まらない。かつては壁打ちのTwitterでなんとか、おしゃべりを発散させていた。今やわたしのスマホTwitterのappはない。行き場がない。仕方がないので、ブログを一心不乱に綴る。おそらく深夜の研究アウトプット魔と同じ原理で起きている事象なのであろう。どうにかしてくれ。

 

中島敦の短編に「狐憑」という話がある。

かなり内容を端折って説明するならば、「口から出まかせ」人間が、コミュニティにおけるスケープゴートとなる話である。ホメロスが生まれる前の、名もなきストーリーテラー。たしかに、語るという行為はある種の「憑き物」と不可分の関係にある。

 

どうにかして書こう!として完成させた話は、とんでもなく歪で面白くない。いや、別に歪はいいのだが、なんか自我が強すぎて嫌になっちゃうんだよな。わかるかな、あの「なんとか文章を書いてやる!」という息の荒さ。わたしも時として、必死な文章を書いてしまう。そんな粗さも躍動感として読み替えることは可能ではあるけれど。

 

一方で、一心不乱に文章を書き綴るときは「何かに取り憑かれた」というような感覚を得る。すでに、このような「降霊」現象については、文献学的な、というか歴史的な側面からの研究があるし、よく言われていることなのだが…。

 

そういう「憑き物」が来るのは、魔の(?)時間である深夜。でも、わたしはこの手の憑き物とうまく付き合えているようで、今もこの一心不乱に文字を打つことで限りない「癒し」を得ている。

 

いや、今気付いたんだけど「憑く」と「癒す」のふふたつと漢字似てない?全く裏付けはないし、トンデモ論だけど、この二つって似ている気がする。

どちらも受け身で表現される場合が多く、憑かれるにも、癒されるにも、自分ではどうにもできない要素がないのでは?とか考えたけど、癒しって別に能動でも使うよね、やはり深夜は魔の時間帯だ。

 

余白を味わいたい、とか抜かしている割には全然余白を味わっていない。というのも、最近の読書はもっぱら研究所で、趣味のための読書も大概、評論である。精読という行為ができていない。テクストと真摯に向き合い、新たな読みを提示する。これが苦手すぎて、いまの研究に辿り着いたのだが、それでも精読が上手な人に憧れてしまう。

 

そう、余白の多い文に触れれば良いのだ。

余白が多ければ多いほど、解釈は自由!なんてことはさすがに言わないけれど、精読に値するような文章は、たいてい余白を多く含んでいる。わかりやすくて明瞭な文章にはない、あのじめっとした、仄暗い空間を味わいたい。いや、思っているよりカラッとしているのかもしれない。そもそも読んでいないので、なんとも言えない。悔しい。まだまだ悔しがれるなんて、青いな、わたし。

 

文學界の2022年九月号掲載のcero高城さんのインタビューが心に残っている。具体的な内容は引用しないが、詩的空間のシフトについて述べられていた。徐々に具象の世界から抽象の世界へと推移していく感じは、ceroの歌詞を見れば明らかである。なるほど、と作品の解題を読む感じで感心してしまった。

 

Orphansでは、明確なストーリーラインがあり、小説のように物語が進む。それが最新曲の「Fuha」になると、どうだ。そこには具象の世界は描かれず、心象風景が目まぐるしく眼前に示される。眼前、としたが、視覚情報に溢れていることを示したかった。

 

なんというか、イマジズム詩を読んでいるような感覚を得た。エズラ・パウンドのかの有名な詩「In a station of the metro」を彷彿させる、あのモザイク画のような風景。視覚的な言葉は並べられるが、その実態をつかもうとすると、ふっと消えてしまう。一つ一つははっきりとせず、ぼやけた輪郭線だけが残る。

 

かつてのceroはなんというか原始の世界への希求みたいなもの、アメリカ文学への傾倒とかそうしたもので特徴づけられていた。どちらかというと、そうした分かりやすい傾向、というよりは具象の世界からの逃亡、とした方がいいのかな。夢のように、断片的で一貫性を持たない言葉の群が醸し出す、視覚イメージ。そんなものにceroは取り組んでいる。余白に真摯に向き合っている。

 

4月の日記に、「具象の世界から離れたい」と記されてあった。なんの意図で書いたのか、覚えていない。書いた、というよりかは書かされたのか。それさえぼんやりとする。分かりやすい物語への忌避、というべきか。大きくて、明瞭で。そんな物語に飲み込まれたくなくて、書いたのかもしれない。

 

人生は一見すると大きな連続的な物語に収斂されるように見えるが、実は断片的で、物語として拾いきれない、そんなもので溢れている。

 

そうしたものへの抵抗。たぶん、わたしはそんなことを思って、余白にこだわりつづけるのだろう。