Naegi

逍遥

余白を味わう

今まで数年間、他者の視線をinternalizedさせて、というか別人格を憑依させて自己を表出させていた気がする。

 

私の人格ってなんだよ…とイライラ考えても答えなんて出るはずがない!

 

確かに、私はある友人たちを前にすると、全然文句も言わないし、優しい人を演じている。でも、心はかなり良い面も、悪い面も気づいている。

 

私は、はっきり物事を言うタイプなのに、ナヨナヨした人格を装ってなんとか組織を生き延びた経験があるが、実際はそんなことない。

 

おじいちゃんは私に言ったらしい。

「あんたは、はっきりしていていいね」

小学2年生の時の話である。

 

社会の荒波に揉まれ、ハッキリ生きない方がうまく渡っていけると学んだ。それでも、このハッキリした性格は健在である。文句を垂れるし、かなり極端なことも言う。もちろん、その都度反省しているつもりだが、なかなかそれが難しいこともあり、もう〜わたしったら!て思っちゃうけど、これがわたし!という事実は変わらない。

 

うまく折り合いをつけて、極端な自分とうまく生きていきたい。昔から、白黒はっきりつけていきてきた人間だが、このパンデミックを境に、わたしは破綻した。白黒はっきりさせる性格は、ネガティブケイパビリティが欠損していることの証拠であろう。余白も必要だ。

 

余白。私が人生で求めているものはこれだろう。

生活、人生において必要なのは余白だ。

それこそ、小川公代さんが『ケアの倫理とエンパワメント』で論じていた、クロノス的時間の対照点に置かれた、カイロス的時間なのではないか。

 

夜の大学校内で、お互いの顔がはっきりしない状態で友人たちと会話を重ねるのが好き。この時間は、計量的に管理されたクロノス的時間の反対に置かれたものである。こうした時間を愛せているうちは大丈夫だろう!と楽観視する。

 

授業が開始され、大学での交流も再開する。

久しぶりに研究室の人たちとご飯に行った。

あー、この生活が好きなんだよな、と改めて思った。