Naegi

逍遥

七夕で棚ぼたを願っても仕方ない

乗り合わせた電車の車内で、懐かしい香りが漂う。数年前、誕生日プレゼントにと買った香水で、初めてのデパートコスメだった。テスターをつけに行った時の厚遇に驚いた。こんなに試供品がついてくるのか!という驚き。香水は5000円よりも安かったけれど、そのホスピタリティに感激してしまった。同時に、サービスは私に見合わないようにも思った。

 

背伸びしすぎたせいか、その香水は棚の奥に仕舞われている。オウパラディの香水か、shiroのボディミストがお気に入り。もちろん、これらも安くはないのだが、気負わずつけられる香水であることは間違いない。デパコスはハードルが高く、薬局で買うことになる。学生なので、当然といえば当然だが。

 

消費とサービスについて思いを馳せる。私が地方都市から、大都市へと移り住んだとたん、消費社会のサイクルに組み込まれた感じがする。本屋は大きいし、ありとあらゆる雑貨を取りそろえた店がある。ドイツからの留学生は、この街の雰囲気が好きではない、全然サスティナブルじゃない、と言っていた。確かに、ショッピングモールにはSDGsを謳ったポエム(?)が散見されるものの、結局は消費を推進してしまう。グリーンウォッシュだよね…と言いつつ、私は棚に押し込んだ香水のことを考えてしまう。

 

デパコス購入時のサービスもそう。お金を出したから、当然のように高品質のサービスを受けられる、ということだ。でも、サービスって資本主義とはとことん相性が悪い概念である。私がサービス系の業界に就職しなかったのも、そういうことだ。

 

アルバイトとしてサービス業に従事しているが、私は常に時給のことを考えている。お金と時間を交換している意識ともいうべきか。時給が発生しない時間は、ほとんどサービスを行わない。熱心なバイトさんの中には、時間外も顧客対応に取り組んでいる人もいる。彼女らを見ていると、私が極悪非道な人間のようにも見えるが、仕方のないことだろう。社員の人たちも、みんなよい人ばかりだ。本来なら不必要な業務も、進んで買って出ている。勤務先の口コミサイトを見ると、「人はよい。業務はブラック!」とあった。

 

サービス業界、とりわけ教育業界はこのような口コミをよく目にするように思う。ブラック企業あるあるとして、人柄や雰囲気はよいが、業務量の多さに圧倒されるがあると思う。往々にして教育業界に起こる問題だが、この仕事を天職と思っている人は、楽しくて仕方がないらしい。傍から見れば搾取だが、当人にとっては趣味に没頭する感覚と同じようである。

 

私には、その感覚を持ち合わせていない。比較的、サービス精神が旺盛なほうだと思うが、対価を考えだしたとたん、注力できなくなる。小川公代さんの『ケアの倫理とエンパワメント』で、アガンベンのクロノス時間とカイロス時間を知り、この現象に納得してしまった。学生時代のボランティア活動には、時間を度外視して、深夜まで活動していたのに、アルバイトではそのサービス精神を発揮できなくなる。

 

数年前、ブラック学生団体でいくつもの企画を運営した経験から、ブラック耐性があるかのように思っていた。が、その思い込みは完全に間違っていたのだ。定量化できる労働に、全身全霊で挑めない。

 

まぁ、そんなことを気づいたので、私は私の進むべき道にとても満足している。人生塞翁が馬というけれど、なんかうまくいくようになっているんだよなと思う。

 

そういえば、数日前、こんなことを聞いた。

願いごとをする時点で、願いって叶わない、と私よりもずっと年下の人に言われた。かなり本質に近い言葉かもしれない。

 

七夕で何を願うのか聞いたところの返答である。

叶わないと思うから願うんだよね、という旨を言われた。

七夕では何も願わないらしい。

 

私もずっと、遠くの山の稜線を見つめるかのように幸福を願っていた。つまり、手元の幸福に気づかずにいた。強欲なので、次から次へと願い事が思いつくものの、結局叶わない願いばかりである。成就されない願いに執着しないことを、やっと覚えたというのに、願う癖は抜けない。

 

足るを知るフェーズの到来。私は、たぶん幸福のなかにいるけれど、本来定量化できない幸福を定量化しようとして躍起になっているのかもしれない、と思った。だから、次から次へと願いが思い浮かぶ。あの洋服が欲しい、あの本が欲しい。鳴りやまない願望アラート。

 

辛い感情を味わうことに慣れてしまった。だから、助け船が欲しくなる。

「納得のいく修士論文が書けますように」と短冊に書きそうになるも、やめた。

願う時点で書けないと思っているのだ。素晴らしい気づきを得られたように思う。

 

先ほどの話に戻るが、サービス業を心の底から楽しめる人は、このきらめきを大切にしているのかもしれない。ケア、ともいうべき仕事のなかで、得られるエピファニーを心待ちにしているのかもしれない。

 

…もちろん、搾取されていることは憂慮すべきことだし、美化できる話ではないことも承知である。

 

人のために働くのが楽しいという人は、自己犠牲のなかに自分を見出しているのかと思ったが、どうやらそれだけではないようだ。

 

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そんなことで、今日も思考をめぐらせる一日だった。

 

久しぶりに、ceroのsummer soulのMVを見る。免許取りたての、大学1年生の夏休みという存在しない記憶が蘇る。私は都会に憧れがある。シティポップが喧伝する都市像というより、cero的な、郊外の光が欲しい。

 

高校生の頃は、ピチカートファイヴの東京像に憧れていたけれど、私は郊外の東京にあこがれている。音楽が見せる共同幻想のなかに、入り込んでしまったことは間違いない。でも、私は生活のきらめきを見出せるようになったから、音楽が作り出すフィクショナルな都市像も悪くないのかもしれない。