Naegi

逍遥

居場所

ここ数日、夢がやけに鮮明なので記録しておく。

今日の夢は引っ越しするだった。新幹線か特急か何かに乗って、遠くの街に引っ越していた。問題は、昨日見た夢だ。わたしは部屋を追い出された。

なぜか、カップルYouTuber(実在するかは知らない)と同居することになり(すでに地獄)、撮影のために出て行ってくれ!と懇願されてニューヨークに飛び立った。ニューヨークに出たものはいいが、帰り方がわからない。どのバスに乗れば、宿に戻れるのかわからない。日も落ちてきた。外国人女性が歩いていて安全な時間ではない。ショッピングモールに入るものの、治安の悪さに嫌気が差し、あてもなく歩き出す…という夢。

 

それだけわたしは居場所に対して不安を抱いているのか?大学では十分すぎるほど自分の居場所が確保されているために、これは就職活動への不安を暗示する夢なのではないかと安直に解釈してみる。居場所。わたしが身を置く場所ではない、と気づいた時のやるせなさ。心機一転、居場所を変えるような妥協はない気がする。

 

ああ、これは過去の古傷にも起因する不安なんだろうな、と気づく。中高時代、居場所のなさに毎日怯えていた。わたしを優先順位の上位に置いてくれる友人が皆無だった中学時代を思い出す。ひとりにならないために、わたしに話しかける友人ならたくさんいた。2番目3番目の友人だった。同窓会に行っても、それはありありと残っていて、その時は楽しくても二次会に誘われることはなかった。

 

高校生の時は物理的な場所がなかった。昼休み、

自席で昼食を済ませようとするも、他のグループがわたしの席を占拠していて、悲しくて自習室に逃げ込んでいた。それなりに権力を持っていたグループだったので、不当な占有に対して抵抗するわけにもいかなかった。毎日、泣きながら自習していた日々を思い出す。

 

簡単に癒えることのない傷をかかえて生きる人は多い。ふだん明言しないだけで、みんなめちゃくちゃ傷ついている。程度の差はあるものの、それを相対化してものごとを論じる姿勢は慎みたい。この傷とどう向き合えばいいのか分からないが、傷を持っていることを自覚するだけでも違うと思う。

 

傷を癒すためなのか、傷を見ないようにするためのものなのか、わたしは長い間、なにかから逃れるために走っていた。一見すると、幸福を得るための行為だったかもしれない。パッケージ化された幸福に対する抵抗は、往々にしてこのブログで書いてきた。それを突き動かしていた根本的な源泉は、たぶん傷にある。傷は人間の行動を支配してしまう。だから、まずは傷の存在に目を向けなければならない。

 

やさしい言葉は世の中にたくさんある。やさしい言葉はやさしい言葉に過ぎず、見分けないと大変なことになる。やさしさでは、どうにもならないものがある。というか、やさしさを演出するための言葉に対して警戒しなければならないのかもしれない。

 

わたしは、やさしい言葉に囲まれて生きてきたと思う。ここのところ。ただ、そろそろやさしい言葉の副作用みたいなものを感じている。やさしさの本質を見極めて。まずはわたしと向き合って。そうわたしは自分に声かけをする。

 

にしても、単なるコマとしての労働者になるのはどうしてもしんどいものがあるわね〜こんなもの、機械にやらせればいいじゃない!と言いたくなるような単純な計算をテストされる就職活動は嫌だ。やはり、思考のある労働者は嫌なのだろうか。わたしは、誰が何を言おうと考えてしまう人です。

 

就職活動は居場所を探し求める行為ではあるものの、その居場所が私に合っているかどうかなんて入らなければわからない。あたかもフィットしてるかのように語らねばならないのが辛い。社会が求めるようなタフさはない。わたし、に限らず多くの人がそうなのであろう。みんな傷をたくさん持ったいる。いわゆる「ガクチカ」とかではとうてい語りきれない感情はたくさんある。立派な労働者に見せかけるためのアチーブメントを語り、笑顔の裏で悲しくなってまうのではないか。

 

そう考えると、受け身の状態で居場所を作るのは危うい。夢のわたしに告ぐ。わたしじゃなくてカップルYouTuberを追い出せ!わたしの居場所はわたしが作るんだ!!!!強気になれよ!!!!わたし!!!!