Naegi

逍遥

晴れ空と曇り空の連想ゲーム

雨上がりのアスファルトの香り!これをペトリコールと表現するらしいが、私に言わせれば、森林の露天風呂の香りである。冗長なので、ペトリコールと言えば話が早い。幼少期、都市圏から地方都市に引っ越した時、雨の匂いへの感度の違いを感じた。田舎で育つと雨の匂いを感知できるのよね、と母親に言われた気がする。都会に住んでた時は、あの匂いを予知できなかった気がする。まぁ、思い込みに惑わされているのは否定できまい。

 

ペトリコールという語は洒脱な印象を与えるが、実際は不快指数と行ったり来たりのもんで、物は言いようである。この湿気が思い出すのは、学部1年のころの梅雨だ。その年は例年よりも降水量が多かった。友人と雨宿りしながら談笑したことを思い出す。

 

嗅覚は記憶を呼び戻す作用があるらしい。コーヒーの香りを嗅ぐたびに、高校の職員室を思い出す。解答を書いては職員室に持っていき、また別の日には添削済みのノートが渡される。時に先生と議論しながら、解答のブラッシュアップを目指した。「二項対立から読み解けばいいと思うんですけど」と小声で反論したことを思い出す。現代文は二項対立から読み解けと言われていたが、添削担当の先生は違うと言っていた。二項対立の前提とすることは本当に正しいのか、吟味しなければならないですね、と一蹴された。

 

当時の私は理解できなかったが、その先生はきっと大学でしっかり学んだ人なのだろうと思う。受験国語という点では、時として趣旨に合わないことを言っていたが、テクストの読みについて教えてくれた先生だった。二項対立から零れ落ちる要素を拾うように、との教えは、現在もなお、意識するところである。受験国語の範疇に留まらない、教科への愛を教えてくれた先生だった。私は教員免許を持っていないけれど、仮に先生んになるなら、その先生みたいになりたい。定石の外に目配せできる人になりたい。

 

そういえば、私は中学時代から研究者に向いていると言われてきた。主に、担任の先生から言われることが多かった。当時、私は研究者に対してネガティブなイメージを持っていたので、少し落ち込んだ。大学入学後、母校を訪問した時に「あなたはやっぱり研究者になるべきだよ。社会向いてなさそうだし」と言われて落ち込んだものである。「大学院すら行きたくないです」と返答した記憶がある。TAとして働く大学院生が大変そうだったから。TAがアルバイトだということを知らなかったので、大学院生は先生の言いなりだと思い込んでいたし。

 

今となっては、TAは天職(?)と思えるほど楽しいし、研究も楽しい。数日前まで、スランプで何も書けなかったのに、資料の言語を変えたとたん、新たな発見があった。やはり、一つの言語に留まるのは危険なのだ。ほかの言語で書かれた資料を読み、気づける視点はある。ありきたりなことだけれど、身をもって痛感した。

 

なぜ研究者に向いていると言われたかというと、特定のトピックに対する執着めいた愛があるからなのかもしれない。研究者の仕事をあまり知らない人には、「人と関わるの苦手そう」とか心ない言葉を言われたし、高校の担任には「勉強ができても仕事できないと…ねぇ?」と遠回しに言われた気がする。)

 

ある程度の文献を渉猟した段階でわかったことだが、私のパーソナリティは研究者に向いているが、能力やその他もろもろの事情により、就職することが最適だということに気づいた。とはいえ、研究対象に対する情熱は消えない気がするので、どうにか研究のフロントラインとは離れたくない…という葛藤もある。幸い、私は各種リソースと接点を持つことができそうなので、週末研究者になれそうな予感を持っていたい。

 

長々と身の上話を繰り広げてきたが、私の友人たちの話もしたい。

私の友人の多くが、自分の考えを持っている人である。時に、「気が強い」と形容されるらしい。私はその形容詞をマイクロアグレッション、というか自分に対する呪いのようなものに思うので、使わないようにしている。ある種の言葉狩りのようなものかもしれないが、自らの価値を損なうような表現は使いたくないのだ。

 

友人たちと同様に、私も気が強そうと言われることがある。まぁ確かに圧迫面接で反論できたのだから、その形容詞はあながち間違いではないだろうが、自らに対して使いたくない!と思う。

 

共感するが、完全に同意するわけではない。そのコミュニケーションがとても快い。どう足掻いても他人にはなれないのだが、他人の観点をインストールすることは可能である。(TAとして後輩を指導する時、指導教員を憑依させるような感覚を覚える)

 

友人と語り合っていると、隠されていた宝が見えるような希望を覚える。あらかじめインプットされていたコードは、自分を痛みつけてしまうこともある。一回、問題から離れて、角度をずらす。自分の力では難しいので、友人が教示してくれたスコープから問題をのぞく。

 

私は結局、なんだかんだ言って、人と生きていくように思う。婚姻とかの制度ばかりに目が行ってしまうが、私は複数のレンズを欲している。自分とそこそこ似ていて、でも共感だけじゃない。そんな関係性を希求している。友人や家族。

 

こんなことを言っても、そろそろ制度としての婚姻について考えざるを得ない年齢に差し掛かるらしい。制度としての婚姻と、私のネットワーク感は妙に齟齬があるので、説明するのが難しい。下手すれば逆張りとか、負け犬の遠吠えとか言われそうだが、私が幸せならOKです!ということで、グーサインしておこう。

 

音楽の話。好きな音楽の傾向について、ぼんやりとした認識しかしていなかったが、わかった。長調短調が入れ替わり立ち代わり転調する曲に惹かれる。例を挙げるならば、Corneliusの「変わる 消える」や椎名林檎の「すべりだい」、capsuleの「Rainbow」。すべてDの調べであることからもわかる通り、私はDが好きだ。その中でも、メジャーとマイナーコードが入れ替わる曲が特に…。急に曇りだしたと思えば、また晴れ間が見えた!という具合の曲がとても好きだ。今の季節みたいな曲。

 

好きな音楽とコードの話といえば、くるりの「ばらの花」のことを考える。

言わずと知れた名曲なので、改めて言及するまでもないが、この歌詞は不安を受け止めてくれる曲だと思う。後半の「暗がりを走る 君が見てるから でもいない君も僕も」と不穏になったかと思えば、リフレインするコードに戻る。この時、私はいつも救われたような感覚になる。不安の底に落とされたかと思えば、やさしく包み込まれる…という感情のゆらぎがたまらなく良いのだ。

 

 

…好きなことの話をするのは楽しい。私の書く文章は話題の飛躍がすごいし、くどいけれど、好きなことを話せば、弾んで文章を書けることを知った。これこそセラピーなのでは!?と考えたため、これからしばらくはブログを書き続けたいと思った次第。論文のように、留保をたくさんつけるのはうんざりだ。疲れた。論文の語法に支配されすぎて、表現したいものが見つからない。その間隙から、光を掬い取るよ~!