Naegi

逍遥

体験を語る意味

自分の体験を文章にする。

作文の基礎は、経験ベースで書くものだと教えられてきたから当たり前のことである。

 

でも、これを世の中に放流させる意味とは?と最近考える。

 

ゆえに、具体的な話を出せず、抽象度を上げた話ばかりをインターネット上に垂れ流していたのです。

 

鍵付きのSNSは別。

確実に私のことを面白がってくれる人間がフォロワーにいるんだろうなという安心感(甘え?)に寄りかかり、あれやこれやと毎日言葉にしていく。

 

私はオープンな人間だと思う。

胸中に仕舞った感情よりも、表出させた感情のほうが大きいと思う。大した秘密もなく、惜しげもなく

いろいろ話してしまう性格なのである。本音も言う。

 

これは魑魅魍魎の現実世界だとかなり弱みになるのではないかと思う。仕事の世界では、本音を言うことは弱みを握られることになるらしい。だから、気分が昂らない程度に飲み会の場でアルコール量を調整することが求められるらしい。

 

本音を開示して、人間関係を構築してきた私にとっては難しい。上っ面の話ばかりは何も面白くない。時間を空費するだけ、というようにも思ってしまう。

 

でも、それはあまりにも危険なのであることも覚えておきたい。

 

インターネット世界では、自分語りは非常にアンビバレントな立ち位置にあるといえよう。かなり具体的な身の上話をする。時にはそれがうまくいくこともあるが、多くの場合、想定していなかった反論者の猛反撃が繰り広げらることになるのである。

 

なぜこのようなことが起こるのか。

読者層をこちらでターゲティングすることは非常に難しいからだ。ある程度の層なら予測可能だが、詳細な属性を考えることは不可能である。

 

誰かにとって好きな話題は、誰かにとっての禁忌の話題。これを念頭に置きながら文章を書いていくと、何も書くことがない。強いて言うならば、自己と他者の話。こればかりである。毎日、自己と他者について考えているわけではないのに(具体的なレベルまで落とし込めば、毎日考えていることになるが、概念としてのそれらを考えているかと言われればそうではない。)インターネットでの文章はそればかり。

 

少し前までは、学生時代いじめに遭った不憫な私、というテーマの話ばかりしていた。このような話は忌み嫌われるだろう、と勝手に判断し、最近は避けている。

 

私のなかのトラウマが完全に癒えたわけではない。

今でも、あの手の属性の人たちに出くわせば、ひとりひとりの顔が思い出してくる。その人たちの所属部のユニフォームへの嫌悪感はぬぐえない。

 

(結果的には書いているが)この種の感情をずっと何年も書くのはもう嫌だし、疲れてきた。そして、この話は人を傷つける可能性もあるのだ。

被害者性が加害に転じることはよくあることである。

 

そして、数年前の私は、疑いもなく「いい大学に行くために勉強すること」を正義だと思っていた。念のために前置きしておくと、「学歴なんか関係ないから、遊べ!」と喧伝するわけでもない。

 

大学に行き、今まで手の届かなかった景色が当たり前になり、満たされた私にとって、大学受験のため努力を重ねたことは正解である。

 

正解。一つの正解。しかし、これを掴むまでに私は犠牲を払ってきたことも事実である。精神を病んだ。今でも、当時に似た症状に出くわす。

 

それでも正解だと信じたい。いや、でも精神病むまで勉強しろ!とはいえない。でも、そのおかげで今の私はしあわせだ…という構図。円環する議論。

 

結局はポジショントークなのだという前提を忘れてはならないと思う。一般常識、私の経験。これを踏まえての語りであることには意識的でなければならない。人によっての正解は違う。正義も違う。「絶対」はないだろう。

 

ここまで考えると、経験を語る意味が見出せなくなってくる。

 

 

過去の私へ

 

学校において、他者からの承認を得ることが出来ず、時には存在を否定されて、居場所を失っていましたね。

 

そんなときに考えていたのは、「いい大学に行って見返してやりたい」というものでした。

 

じっさい、教師からも「あなたは彼女らよりも成績がいいのだから、勉強頑張ればいいんです」と言われたことまでありましたね。

 

しかし、そんな教師が「勉強よりも愛嬌が大切だよ」と言っていて、ショックを受けましたよね。

 

友人「〜(私の名前)は成績よくていいなぁ」

先生「勉強はできても、全然コミュニケーションが苦手な子もいるでしょ。(たぶん私)そんな人は社会で生きていけない。〇〇(友人)さんは愛嬌あるし、大丈夫。社会で生きていけるよ」

 

たしかに、彼女は世渡りがうまい子だった。

先生からも好かれていたし、一軍のグループに所属していた。それでも私に優しかった。素敵な人だったな。

 

なぜこんな話を私の目の前でしたのか、分からないです。今でも。

高3の時の傷はまだ癒えてないかも。

 

たしかにあの頃の私は全然生きていく力がなかった。

 

でも、なんとか今こうやって周囲の人に助けられながらなんとか生きていけてます。少しの世渡り力と、周りに存在を示す力は身につきました。どうにかなるものです。

 

友人にも非常に恵まれました。研究も楽しいです。

大学入学時は院に行くなんて思わなかったけど、勉強よりも研究の方が楽しいので、大学での学びは学部生の時よりも院生の時の方が楽しいです。

 

こんな今があるのは、過去の私が泥水を飲むような気持ちで勉強を頑張ったから。ありがとうね。

 

泥水?

 

いや。

 

でも、こんな私の生き方をある型の美談にしないように。世の中にはこの型の話に溢れています。

そして、この型は面白くないです。それに、私は私が幸運だったことを前提に成功を記述している。面白い?それ。報われた努力は自分の中で締まっておけばいいのよ。合格体験記は世の中に溢れているし、あえて成功にフォーカスした話を述べる意味ってある?

 

 

私を駆動していた気持ちはそれだけじゃない。とある学問を学ぶのが好きだったから。それなら一番の理由でしょう?嫌いな教科を勉強するのを避けていたでしょう?大学に合格するという動機のための勉強だった?その側面はどちらかというと二番手にくるでしょう?

 

だからいまの研究も楽しい。読書、好きでしょ?

 

逆境からの成功談はウケがいい。就活では特にそれが顕著です。でも、もういいでしょ、そんな話。面白くないじゃん。展開が予測できるっていう点で。私の経験をその型に落とし込む意義って?勉強頑張ったことで閉鎖的な田舎から出たって?たしかにその側面も否定できないけど。

 

もう他者の視線を内面化して、物語を編むのはやめたほうがいい。もっと自分の気持ちを大切にして。

 

時に、この強烈な原体験を語るのはいいと思います。

これと切り離して自己を語るのは難しいし。

 

でも、ありふれた型に落とし込むのはもうやめて。自分を安売りするようなもんでしょ。かわいそうな自分に酔って、認めて!って声が聞こえてきますよ。

 

大丈夫だから。自分の好きなものに目を向けてくださいね。大切なもの。それについて記述するなら大丈夫。体験の安売りにはならないから。

 

過去の出来事にケリをつけたい、と願うまでもないのかもしれない。

 

可哀想な私、のフェーズからは確実に抜け出せているのだと信じたい。

 

 

追記

この種の話の延長上で書いたウェブ記事貼っちゃう。この本は本当に私を救ってくれた。

https://mirror.asahi.com/article/14540148

 

さっき公開した記事で、クソ比喩アナロジーを散々ディスったのに、くどい比喩がたくさんだね💫

卒論書いた後に出したやつだから、語彙がやや堅くてそれも味、だね!