Naegi

逍遥

すべてを自己完結させちゃうなんて

最近は周囲とうまい具合に距離を置きつつ、時には心ゆくまで語ることができるようになった。

この匙加減を知るまでになかなかの時間がかかる。

にんげん、近すぎても遠すぎてもダメなのよ。

 

ひとつ腑に落ちたことがある。

それは自己承認は自己完結させること。

アウトソーシングをしないこと。

 

頭ではわかっているのだけど、なかなかこれが難しい。

 

そもそも、文章を書いている時点で自己承認を自己完結するのは難しいのでは?と思うが、ブログを残す意味として後から自分で思考の足跡を辿れるように、という目的が一番大きいから、よいだろう。

 

今までは肥大化する自己承認欲求を処理するので大変だった。この辺はむかし、noteで綴った気がするから省略。

 

いまのところ、予定をギッシリ詰める癖は治ったし、一日の時間を確保しないとぐったりするのでいい塩梅になっていると思う。

 

疲れたと思ったら休んで。

やりたいことはやって。

 

当たり前に見えるが、これを習慣化するのはなかなか難しかった。

 

 

いや待てよ。

 

たしかに私はこれを目標に掲げているが、ほんとうに自己完結は可能なのか?という問いが浮上してくる。

 

疲れたら休むって?

案外、疲労を自覚するのは難しい。

 

表現すること。

研究で受容史にも触れる通り、ある芸術作品とその受け手は不可分の関係にあるのだ。受け手の想像なしに作品を完成させることってできるの?

そもそも、文を連ねることが自己完結なの?

インターテクスチュアリティやエクリチュールという言葉が示唆するように、今や「書いているもの」とは他者との関係性において規定される。

 

他者の承認という言葉で定義すると見える世界はあまりにも狭くなってしまう。こちらがいくら避けようとも、世界は迫ってくる。世界は開かれているのである。

 

話を戻そう。

 

ひとついえるのは、自己と他者の境界には意識的になっていた方がいい、ということである。

昨日読んだエッセイに多和田葉子のエッセイ「溶ける街 透ける路」(講談社文芸文庫)のアウシュビッツの章にて、全体主義に対する示唆があった。

個人の存在が剥奪されることによって、全体主義は可能なのだと。日本の坊主刈りを例に、残存する集団化は果たして全体主義の名残なのか?と問う。

 

中高という監獄から無事出ることができ、研究室のコアタイム等はない院生という自由な身分なので、あからさまな集団の圧力を感じることは少ないのだが、これから来るであろう就活の波を考えては、ため息ばかりが出る。いつもの、お腹から出した低い声で話せば大丈夫、と鼓舞しつつも、スタンダードに合わせていく自分が恐ろしくなる。

 

集団に溶け込む前に、一呼吸置いて「それはかりそめの姿」だと意識したい。仮の姿であることを忘れ、いつしかそれを内面化してしまう。よくあることだ。就活の意識高い系界隈に染まらない。富と名声に貪欲ではありたくない。成長?垂直方向の上昇志向はない。ゆるっとした成長ならしたい。

(最近の採用担当はSNSの特定技術が向上したらしいが、はてなブログの拡散性・検索性が低いことを願いたい)

 

このあからさまな例のみならず、集団に溶けてしまいそうな場面はいくらでもある。

インスタグラムをひらけば、ある角度から「幸せ」とされる風景が広がる。旅行。美味しい食事。恋人とのデート。友人とのパーティー。うんうん、それもいいけれど、私はこれだけに縋りたくない。自分の幸せを規定したい。幸せのステレオタイプなんて川に投げ捨ててしまえ、と祈る。

 

いや、それならソーシャルメディアの類を全て止めればいいのだけど、それができないから、難しい。

ソーシャルメディアが個人と個人が、個人として関わるツールとして優れているのも事実である。

一方で押し付けがましい幸せが氾濫しているのも事実。その取捨選択ができればいいのだけど。

 

自分にとって幸せだと思うことが、他者由来のものなのか、本当にそうなのか、判別がつかなくなってきたから怖い。ほんと、ここ数年で自己と他者の距離はいっきに近づいてきた。

 

それでも、さいきんの生活は満ちているのである。

こんなに文句(?)を連ねてはいるけれど。

 

 

ちょうどいい具合に予定を入れ、たまに夜遅くまで語らい、また研究に励む。理想じゃん、と思う。

先のことを考えるから不安になるから、今日はもう休んで明日に備えようかな。もう「明日」は来ていたけれど。

 

たくさん英語の文章を読んで疲れたけれど、最近は英文を翻訳に頼らず読めるようになってきて嬉し

い。ちょっとずつだけど進歩を感じた。