半年以上前に遡るが大人になった。
派手なイニシエーションがあった訳ではないが、
怒涛の十代後半を振り返れば、あれはある種の通過儀礼だったのかもしれない。
なんてぼんやり考えていたら成人式当日になった。
成人を祝うために故郷に帰った。
数時間、特急に揺られてあの田舎町に降り立った。
何もない田舎町である。
父の運転する車に乗り、サニーデイ・サービスを聴きながら会場に向かう。
「あんたの音楽の趣味は本当に俺に似たな」
父はにやりと笑った。
「いや、それは否定したい。」
「シュガーベイブを流しながらよくドライブしただろ?フリッパーズ・ギターもよく聴いてたはず」
「記憶にございません」
90年代の音楽に興味を持ったのはcapsule からピチカート・ファイヴを知ったことから始まるので、父親に絶大な影響を受けた訳では無いと主張したい。
とはいえ幼い頃からシュガーベイブのダウンタウンをよく口ずさんでいたなと思い出す。
車内に響き渡る都会的な音楽と対照的に窓の外には田園が広がっていた。
平野の縁、境界線の向こうには扇状地が広がっており、遥か彼方、北方には分水嶺が見える。
この向こうは北国である。
ここはからっ風の吹き荒れる平野。
乾いた大地を毎日駆け抜けていた高校時代が懐かしい。時に向かい風と闘いながら通学をしていたものだ。
風の強いこの地方では、制服のスカートの下にジャージを履いて通学するのはこの地方では珍しいことではない。埴輪スタイルと名付けられていたっけ。
ちなみにこの地方は埴輪を多く出土することでも有
名である。実は古墳の多い地域柄で、小高い丘があればそれは古墳である可能性が高い。
すぐ隣の高校の敷地内には古墳があった。
真偽は定かではないが、その古墳に入ると高確率で浪人するというトンデモ説が流布しているようだ。
ソースは弟。浪人が怖くて古墳には近寄れないとのこと。
回想に耽っていると、
いつの間にか車は田園地帯を抜け、市街地を走っていた。
着付け会場で振袖に着替え、会場から10分ほどの祖母宅を訪問し、挨拶をした。
この振袖は母親のもので、なかなか良い着物であるとのことだった。
桐の箪笥のある祖母宅で着物の道具一式を保存してもらったので、この成人式に協力してくれた祖母には感謝してもしきれない。
かつて娘が着ていた振袖を孫である私が着る。そんな様子を見て祖母の目には涙が浮かべられていた。
本音を言うと、
5年前に亡くなった祖父にも見せたかった。
仏壇に向かい、成人したことを報告したが報告したいことはそれ以外にも沢山ある。
高校に受かったこと、大学に受かったこと、今の生活が満ち満ちていること。
私の高校入試直前で亡くなった祖父には併願校の合格を報告したのが最後であった。
第一志望の女子校に受かった時には亡くなって1ヶ月以上経っていた。
生きていれば、周りに言いふらすほど喜んでいただろうな、と母も祖母も話していたが、大学受験合格時にも言っていたような気もする。
兎に角、祖父には報告したいことが沢山あるし、相談にも乗ってほしいな、と内心思う。
学生時代、教会に通い詰め、英語を習得したという祖父は通訳の仕事をしたり、海外支社に務めていたりとまぁとにかく英語が堪能だった。
そんな祖父に私の英語を見てアドバイスしてもらいたいなとも思うが、教えるということには無頓着だった祖父はきっとうっすらと笑みを浮かべながら
Don't worry 、と一言発するだろうな。頼りにならないなぁって祖父に言ってしまうんだろうな。結局下らない会話に落ち着くのだろうけど、やはり祖父にもう一度会いたい。
会場に到着すると、止まるパトカー、スーツを着た若者が集まっている中たまにリーゼント姿の袴を着た男性がちらほらいるのを確認した。これでこそ成人式、気持ちはどんどん高まる。
振袖姿の女性は言うまでもなく美しかった。白い毛皮を見にまといながら、狭い歩幅で歩いていた。そんな歩き方がとても粋だった。
振袖、とは名前にある男性を通り振り向かせるような、歩く度に揺れる長い袖が特徴的である。未婚の女性しか着ることが許されない振袖というが、昔の服装は社会的な地位をこのような形で反映していたのだと思うと、洋服という文化はこうしたものを隠し、均一化するのだ、と考えると洋服は暴力的なほどに平等をもたらすものだなと感じた。貧富の差などは反映されるが、既婚未婚の差異が衣服で判別できなくなったことの功罪はいかに、。
尤も、和服よりも洋服の方が可動性に優れているのは確かだけども、やはり和服を着ると背筋が伸びるし、細やかな日本の精神を感じ取れるような気もした。
いろいろ文句は言ったが、結論は振袖姿の女性は美しい。(一切の論理性を感じないところは括弧に入れるとして、本当に振袖姿の同級生は美しかった。)
着ている本人は呼吸する度に締め付けられる帯や座る時に巻き込まれないように気をつけねばならない長い袖に若干、苛立っていたが晴れの日くらい良いだろう、と自分に言い聞かせる。
成人式のお偉いさんの挨拶はどれもつまらなかったが、本来であればあいみょんや髭男を弾き語りたいと語る県知事の挨拶を聞くと、形式的な挨拶は本意ではないのだろうと笑ってしまった。
聞く私たちの態度を見れば、手の込んだスピーチなどする気は起きないだろうと妙に納得してしまった。
自撮りしたり、おしゃべりしたりと好き放題している。誰も聞く気を見せてはいなかったが、野次を飛ばしたり壇上に上がるような輩はいなかったので、良いだろう。案外真面目じゃん、うちの新成人は、富士山のてっぺんから見下ろしたような死ぬほど上から目線だけども。
暴動などない平和な式典だった。
記念品を受け取るが、その殆どは啓発のためのリーフレットだった。まあこんなものだろう。
成人式に出席するために着飾ったのだと思うとがっかりするくらい、式典はとても呆気なかった。
そう思うと、成人式に否定的な意見が寄せられるのはごもっともだ。
まず、真っ先に来る反対意見としてあんなに高いお金をかけて振袖を着てわざわざ出席する意味とは何なのか。
当初私も振袖には乗り気でなかったが、
母親の着た振袖を娘である私が着ることに意義を見出すことは出来た。
祖母の涙、母の笑顔を見ると受け継がれる振袖には子育ての終わりの象徴のようにも見えた。
母親も20歳の時、同じ街で同じ振袖を着て成人式に出たという。そんな母が就職し、娘を持ち、必死に育て、今に至る。そのフィナーレを飾るのが成人式だ。
子どもよりも親が張り切るのは当然だろうなと悟る。
他にも、スクールカーストを再び出現させる場である成人式にわざわざ出席する意味は無いという意見はかなりの人が思っているのではないか。
実際に成人式に出席できない成人も多数存在する。
私も本来であれば出席出来ない側の人間だからその気持ちは痛いほどわかる。
中学時代、急に理不尽な理由で苛められ、高校時代はとある集団に嫌われたためにアウトサイダーになっていた身としてはむしろ成人式、同窓会を欠席しなかったことが不思議である。
確かに、同窓会に出向いたら当時の思い出がフラッシュバックして微妙な気持ちになった。
中学の同窓会、私はとてもアンビバレントな気持ちだった。
半分以上が欠席し、出席しているのはスクールカースト上位の集団か、そうでなくてもコミュニティにきちんと属しているその他大勢だった。
狭い住宅地に引っ越してきた私はそのコミュニティに属することは出来なかった。非常に閉鎖的な世界で、明確に拒絶されているわけではないが、見えない壁によってその境界線の内側に入り込むことは出来なかった。よって、本音を言える友達は誰一人いなかった。ここだからこそ言えるけども。
会場に入る瞬間、タバコを吸って待機していたカースト上位集団が私を一瞥すると舌打ちしたことが若干気になったが、まぁこの人たちとは一生関わることは無いだろうから無視した。
本来は禁止されている酒類の持ち込みをしたり顔で行っているカースト上位集団が、ほろよいで顔を真っ赤にして騒いでるのを見て、心の底からダサいとと思った。
勉強は出来るけど、普通じゃない。異常だ。
ガリ勉、存在する価値はねえ。
死ね、消えろ。
心無い言葉を言い放った同級生は今、最低限ルールさえも守れていない。これは社会人として失格ではないだろうか?そこに誇りはあるのだろうか?
少なくとも私は今の私に少しばかりの誇りは持っているし、今の生活が大好きである。
辛い経験をどうにか乗り越えられた。
こんなことを言われてもどうにか踏ん張れた。
そして今ここに立っている。
でもそいつらはモラルすら無い。
幸せには色々な形があるのだろうから、そいつらの生活もある種、幸せなのだろう、と思う。
しかし、人の幸せを侵害した幸せは許されるのか?
中学在学時は人の幸せを侵害するような連中と関わざるを得なかったが、高校、大学と進学にするにつれてそうした有害な付き合いは極力避けられるようになった。
私はずっとそいつらを見返したくて頑張って来たが、結局人は一度レッテルを貼るとなかなか剥がせないものでついぞ見返すことは出来なかった。
とはいえ、中学在学時はそいつらの価値観に屈し、
自分は取るに足りない存在のように感じ学校を休みがちになっていたものだが、その人たちとは次元を異にして生きているのだから張り合うのも馬鹿馬鹿しい、意味がない、と悟れただけ充分である。
人の幸せを侵害する快楽はナンセンス。
これを悟ることが教養を身につけるということなのだろう。
ガリ勉は案外悪くないのかもしれない。
宴もたけなわだったが、ビンゴ大会が終わると同時に同窓会も終了する。集合写真を撮影し、解散。
私も流れに乗って会場を後にしようとしたその時、とある同級生がわたしの元に駆け寄り、こう言った。
〇〇大に行った、って聞いたよ。
すごいね、とても頑張ったんだね。
中学時代からずっと頑張ってたの知ってるよ。
それほど仲の良い同級生ではなかったが、しっかり私を見てくれて、そして認めてくれたのだ。
いやいや、受かったのはたまたまだよ、全然すごくないよ、大学にはもっと凄い人がたくさんいるから私なんて全然ダメ、と答えていたものの、内心ではもの凄く喜んでいた。
その人に別れを告げた後、人のいないところでボロボロ泣いた。泣けども泣けども涙は尽きなかった。
二十歳にもなるのに、こんなんじゃ恥ずかしいなところ思いつつ。でもとても嬉しかった。
ちゃんと認めてくれた人はいた。その事実がとても嬉しくたまらなかった。いやな思いをしてまで同窓会に行ってよかったなと思った。
今はすっかり堕落してしまったけども(笑)
そういえば、私がいじめられたきっかけはほんの些細なものだった。
クラス全員が一文字ずつ書いて学級目標を書こう、ということで割り当てられた字を丁寧にデコレートしたところ、思った以上に私のデザインが目立ってしまったから、というのが事の発端だった。
運が悪い事に、隣にはクラスのボス的な女子の文字が張り出されていた。
「え、、隣の文字のせいで私の字が全然目立ってない……誰?あんな派手な字を書いたのは?許せない!」
とのことだった。私の友達がそいつに密告し、私はその日からあだ名はパッパラパー、と呼ばれた。
いや、お前の脳みそがパッパラパーだよ、アホが😡💢と今なら思うがその時の衝撃は計り知れなかった。
何で?私はただただ自分の好きなようにしただけなのに!と憤慨していたものだなあ
まぁ、二枚舌だった私の友人も友人なんですけどね(笑)
今となれば、いい思い出よね。こんな理不尽な経験、なかなか出来ないと思うわ(笑)
この経験が無かったらここまでハングリー精神を持って勉強を頑張れなかったと思う。
全く人生ってのは永らえば、なんだから、と藤原清輔の時代と同じ、本質は変わらないものね、と感慨に耽る。
高校時代もやはりクラスの中心的な人物を敵に回していたから、嫌な思いは確かにしたけども、中学時代のこれがあったから耐えられた。
同級生の一部からめちゃくちゃ見下されてたけど、大学受験合格してからは手のひら返しされたような気もする。
女子高も女子高で独特な世界だったな
(遠い目)
素直に母校を称揚する気には到底なれないけども、
親友に巡り会えたり、新聞制作にのめり込めたし、勉強も頑張れたし、良い時代だったんじゃないかな、高校時代は。二度と戻りたくはないけど!(笑)
大学入って、本音を打ち明けられるような良い仲間に沢山出会えて本当に幸せだなあと地元戻ってより強く思えた。
確かに今は弛緩しきってるけど、もう一度踏ん張ってまた頑張ってみよう。
そう、来週にはレポート提出しなくてはならないのだ。そうやって日常に戻らねばならぬ、ハレとケは地続きにある。
……
賛否両論ある成人式。
出席することに抵抗はなくはなかったが、
胸張って出席出来て良かった。
まるで過去と決別できたような気分である。
これからも人生は続いていくので、いつまでも感傷には浸ってられないし、リスタートを切ってベストを尽くせるような人生を歩んでいこう。置かれた場所で咲くぞ!
最後に。
両親や友達にはやはり感謝してもし足りない、
この人たちがいなかったら今の私はいなかった。
綺麗事抜きですよ、もちろん。
本当にありがとうございました。