蝉の声を聴いた。幻聴かと思った。ここ数日で暑さの質が変わったように思う。
窓を開けても、どうにもならない気温になってしまった。
ハンディ扇風機の購入を検討するほど、暑さには参っている。
さて、今日も研究に勤しむ日だった。数日前まで研究に勤しむ日々をかこちていたが、いまや惜しいくらいの日々である。私の選択が正解だったのかはわからないが、数年後にわかるのだろう。物事の展開は想像のうちに留まらないのである。
Twitterで話題になっている、某展覧会について見る。ひとの善意を紹介するらしい。面白そうな企画であるものの、えもいわれれぬ居心地のわるさを覚える。意図された善意は善意ではないのだ。
自分を善良な人間と思いたい。多くの人が経験したことであろう。私もよい人であろうと必死だ。時にパフォーマンシブないい人になってみるが、疲弊してしまう。どうか、強迫観念のように善意が表出しませんように…と祈る。
良いものは、直感的な良さとして存在すべきであって、プログラムされるべきではない。生きてくうえで計画をすることは不可欠のように見えるが、ほんとうのところはそうではない。組織のなかでうまく立ち回るには計画が不可欠だろうが、私を生きるためには計画性を頭の隅の方に片づけたほうが良い。なんとなく良いものを享受し続ける人生でありたいね!と思う。
研究のマインドセットと、なんとなくの良さを享受する生活は、トレードオフのように見えて、実際はそうではない。切り替えが肝要なのだ。研究室でデスクトップに向かう時間と、自宅でゆっくりスマホに向き合う時間を分けたほうがいい。そうすれば、言語化されない、直感的な「良さ」の妙を享受できるから!
今日は最悪な夢を二本立てで見た。
一本目は大好きな人の喪失の夢だった。夢の中で泣いていた。夢だと気づいても、その悲しみは消えなかった。なんでだろう。とりあえず、存在していることに感謝して寝る。
二本目は、恐怖の夢だった。一階に居酒屋テナントのある物件に引っ越したら、酔っ払いに絡まれる夢。
夢が意味するものを考えざるを得ないが、今は目を背けておこう。直視した不安は膨らむばかりだ。
さいきんは時が過ぎることに安堵し、不安になる。