Naegi

逍遥

221008 書くこと、話したこと、読んだこと

Twitterをアンインストールして思ったこと。

Twitterがなくても生きていけるのだ、ということ。

至極真っ当なことだが、Twitterに時間を費やしすぎると、こんなことを忘れる。

 

そして、Twitterで呟きすぎると自分の思い込みが強化されていく感じがした。少し自分の中で消化する時間を作ってつぶやく方が、深みが出るのではないか、と。もちろん、即時で呟ける特性上、メモとしては大変役に立つ。しかし、140字は相当詰め込まないと、言いたいことはいえないし、140字のことなんて、信用できないことも多い。

 

学部2年生の頃、やたらと前置きの長い先生にちょっと違和感を持っていた。なぜ、結論をはっきりと言わないのだろうか。すべてが言い訳みたいに聞こえる…と思ったが、いまはわかる。そんなやすやすと断定することはできないし、結論にも一定の条件付けが必要である。

 

だから、その先生の授業は、信頼に足るということだ。わかりやすく、はっきりしたものは時として重要な情報を捨象しているから。その結論に至るまでの過程を説明すること。複眼的な視点を提供すること。この二つに重きを置くと、どうしても話は長くなってしまうのだ。

 

世の中はますます二項対立的になっているように感じる。インターネットはとくにその傾向が顕著で、わかりやすくはっきりと結論を言う論者が好まれているようだ。論破を目的とした議論が展開され、勝ち負けで決まっていく。

(この話は、ほかの媒体の記事でも書いたのだが)

論説文の読解のためには、文中の二項対立に着目することが大切である。筆者は、自らの主張のために、もう一つの比較事項を設ける。二項対立に着目すれば、筆者が何を言わんとするのか、自ずと分かってくる。そういうことだ。

 

私はこの読解法を駆使したことで、現代文の成績を一気に上げた。書かれていること自体を吟味しなくても、好成績は取れてしまう。

 

そんな時、私の指導にあたっていた先生が言った。

「私は、二項対立が全てだと思いません。」

私はその時、先生に反論したくて仕方なかった。

これさえ押さえれば、筆者の主張がわかるのに。

なんで先生はこんなことを言うんだろう。

 

これがわかったのは、論文を書くようになってからである。論文は、先行研究や一般論を批判的に捉え、自説を展開するものだ。先行しているもの、一般に受容されている説の批評に際しては、その妥当性を吟味しなくてはならない。

 

時として、その批評は的を外してしまう。

例えば、恣意的な比較を展開してしまうのはよくある。その二項対立は、あまりにも論を展開するのに都合がいいのではないか?と、自問自答する。

 

ここでわかったのは、二項対立的な比較には気をつけたほうがいい、ということ。

 

先生の言っていたことは当たっていたのである。

私は饒舌である。

いろいろなことに自説を展開する、めんどくさい人間である。

周りの人は、とても素晴らしいので、私のトンデモ論に対して「バイアス強すぎでしょ」「それステレオタイプじゃない?」とか、ちゃんとツッコミを入れてくれる。

バイアスの強くかかった二項対立的な思考に陥る私に、ちゃんと指摘してくれる。下手したら、私は裸の王様になっていたかもしれないのだから、ありがたい。

 

白黒ハッキリつけたい人間はなにかとストレスがかかる。灰色で境界の曖昧な空間を受容さえすれば、私はもっと生きやすくなるのになぁと思う。

仄かな光を頼りにして、その茫漠とした空間を生きることさえできれば…。

最近は、近代の反省ともいうべき書物をたくさん読む。この白黒はっきりつけることも、近代化の所産だと思う。煌々と照らされた空間を生きることで忘れたものはなにか。

 

判然としないことを受け入れる(=ネガティブケイパビリティ)。このような論説は、日常生活とも密接に関わっており、なかなか唸ってしまうような内容が多いのだ。

 

いまの私の悩みは、すぐに答えを求めようとすることに起因しているのではないか、と思う。そして、すぐ言動に意味づけをしてしてしまうことも。

 

もっと長期的な視点で余裕を持って生きることができない。それこそネガティブケイパビリティだよ!と言い聞かせるのだが、なかなか23年間で染み付いた癖は抜けない。

 

どうしようね。少なくとも、数ヶ月のスパンで考えなければいけない問題なのだけど。

秋が深まる。

金木犀の香りも漂う。

暗い道を照らすかのように、金木犀は強く輝いていた。姿は見えないけれど、その存在を否定しようがなかった。私の嗅覚が元気だったので。

 

そんな道で、友人や後輩と人生について語らう。

きっと数年後に振り返った時、これが心象風景として想起されるのだと思う。

 

街灯に照らされ、わずかに見える相手の輪郭。

暗闇は、いつもに増して人を饒舌にさせる。

そして本音を開示しやすくさせるのが、暗闇の力だ。

 

夜道で語り合ったことは、ずっと忘れないだろう。

私はそんな暗闇が好きだ。

 

暗闇。

輪郭線がわからない空間だからこそ、見えるものはある。夜の木々は、まるで生き物のように、こちらに迫ってくる。無機的なものが、生き生きとするのだ。

 

見えていたはずのものが、絶対ではないこと。

暗闇はそれを教えてくれる。

分かった気になるなよ、と暗闇は教えてくれるのかもしれない。

 

 

そういえば、ブルーハーツは「はっきりさせなくてもいい あやふやなまんまでいい」って歌っていたっけ。

 

歌詞の一節が頭を駆け抜ける。

そう、あやふやな状況を受け入れること。

羊文学も「あいまいでいいよ」と歌っていた。

すぐに答えを出さないこと。人生の課題である。