Twitterをアンインストールして思ったこと。
Twitterがなくても生きていけるのだ、ということ。
至極真っ当なことだが、Twitterに時間を費やしすぎると、こんなことを忘れる。
そして、Twitterで呟きすぎると自分の思い込みが強化されていく感じがした。少し自分の中で消化する時間を作ってつぶやく方が、深みが出るのではないか、と。もちろん、即時で呟ける特性上、メモとしては大変役に立つ。しかし、140字は相当詰め込まないと、言いたいことはいえないし、140字のことなんて、信用できないことも多い。
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学部2年生の頃、やたらと前置きの長い先生にちょっと違和感を持っていた。なぜ、結論をはっきりと言わないのだろうか。すべてが言い訳みたいに聞こえる…と思ったが、いまはわかる。そんなやすやすと断定することはできないし、結論にも一定の条件付けが必要である。
だから、その先生の授業は、信頼に足るということだ。わかりやすく、はっきりしたものは時として重要な情報を捨象しているから。その結論に至るまでの過程を説明すること。複眼的な視点を提供すること。この二つに重きを置くと、どうしても話は長くなってしまうのだ。
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世の中はますます二項対立的になっているように感じる。インターネットはとくにその傾向が顕著で、わかりやすくはっきりと結論を言う論者が好まれているようだ。論破を目的とした議論が展開され、勝ち負けで決まっていく。
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(この話は、ほかの媒体の記事でも書いたのだが)
論説文の読解のためには、文中の二項対立に着目することが大切である。筆者は、自らの主張のために、もう一つの比較事項を設ける。二項対立に着目すれば、筆者が何を言わんとするのか、自ずと分かってくる。そういうことだ。
私はこの読解法を駆使したことで、現代文の成績を一気に上げた。書かれていること自体を吟味しなくても、好成績は取れてしまう。
そんな時、私の指導にあたっていた先生が言った。
「私は、二項対立が全てだと思いません。」
私はその時、先生に反論したくて仕方なかった。
これさえ押さえれば、筆者の主張がわかるのに。
なんで先生はこんなことを言うんだろう。
これがわかったのは、論文を書くようになってからである。論文は、先行研究や一般論を批判的に捉え、自説を展開するものだ。先行しているもの、一般に受容されている説の批評に際しては、その妥当性を吟味しなくてはならない。
時として、その批評は的を外してしまう。
例えば、恣意的な比較を展開してしまうのはよくある。その二項対立は、あまりにも論を展開するのに都合がいいのではないか?と、自問自答する。
ここでわかったのは、二項対立的な比較には気をつけたほうがいい、ということ。
先生の言っていたことは当たっていたのである。
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私は饒舌である。
いろいろなことに自説を展開する、めんどくさい人間である。
周りの人は、とても素晴らしいので、私のトンデモ論に対して「バイアス強すぎでしょ」「それステレオタイプじゃない?」とか、ちゃんとツッコミを入れてくれる。
バイアスの強くかかった二項対立的な思考に陥る私に、ちゃんと指摘してくれる。下手したら、私は裸の王様になっていたかもしれないのだから、ありがたい。
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白黒ハッキリつけたい人間はなにかとストレスがかかる。灰色で境界の曖昧な空間を受容さえすれば、私はもっと生きやすくなるのになぁと思う。
仄かな光を頼りにして、その茫漠とした空間を生きることさえできれば…。
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最近は、近代の反省ともいうべき書物をたくさん読む。この白黒はっきりつけることも、近代化の所産だと思う。煌々と照らされた空間を生きることで忘れたものはなにか。
判然としないことを受け入れる(=ネガティブケイパビリティ)。このような論説は、日常生活とも密接に関わっており、なかなか唸ってしまうような内容が多いのだ。
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いまの私の悩みは、すぐに答えを求めようとすることに起因しているのではないか、と思う。そして、すぐ言動に意味づけをしてしてしまうことも。
もっと長期的な視点で余裕を持って生きることができない。それこそネガティブケイパビリティだよ!と言い聞かせるのだが、なかなか23年間で染み付いた癖は抜けない。
どうしようね。少なくとも、数ヶ月のスパンで考えなければいけない問題なのだけど。
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秋が深まる。
金木犀の香りも漂う。
暗い道を照らすかのように、金木犀は強く輝いていた。姿は見えないけれど、その存在を否定しようがなかった。私の嗅覚が元気だったので。
そんな道で、友人や後輩と人生について語らう。
きっと数年後に振り返った時、これが心象風景として想起されるのだと思う。
街灯に照らされ、わずかに見える相手の輪郭。
暗闇は、いつもに増して人を饒舌にさせる。
そして本音を開示しやすくさせるのが、暗闇の力だ。
夜道で語り合ったことは、ずっと忘れないだろう。
私はそんな暗闇が好きだ。
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暗闇。
輪郭線がわからない空間だからこそ、見えるものはある。夜の木々は、まるで生き物のように、こちらに迫ってくる。無機的なものが、生き生きとするのだ。
見えていたはずのものが、絶対ではないこと。
暗闇はそれを教えてくれる。
分かった気になるなよ、と暗闇は教えてくれるのかもしれない。
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そういえば、ブルーハーツは「はっきりさせなくてもいい あやふやなまんまでいい」って歌っていたっけ。
歌詞の一節が頭を駆け抜ける。
そう、あやふやな状況を受け入れること。
羊文学も「あいまいでいいよ」と歌っていた。
すぐに答えを出さないこと。人生の課題である。