立て続けに旅に出たので、元気になった。
やはりワンルームで終始する生活は、どこか退屈だったらしい。
定期的に新たな情報を浴びに行くのはよいことだ。
旅に出れば、新たなものに出会う。
出会ったら感動する。
写真に収める。
いい思い出として心に留めておく。
そんな流れがあって初めて旅は成立するのだろう。
ただし。
旅での感動はどこか強制されている気がして、
「きれい」「すごい」と感嘆する台詞は空々しく響く。
それは事前に調べて「ここが綺麗」だとか「ここのご飯が美味しい」とか、そういう旅の「感動」って事前に生まれてるからだと思う。
感動するとわかっていて、感動する。
そこに行けば、誰しもが感動するのだから、感動する。
レールの上をただ走る感じに近い。
旅行記によって作られる旅の「感動」。
これはサイードの「オリエンタリズム」の中にあるtextual attitude そのものである。
先行する書物の枠組みで、物事を体験し、またその枠組みを再生産するという一連の流れは、西洋による支配形式を強化したと指摘される。
私の旅行の「感動」もテクストによって作られたものであり、私の感性だと思ってたものは実は先行するものによって作られている。
逆張りして、なんでもない風景をシャッターに収めたりするけれど、それこそ「田舎の素朴な風景」というステレオタイプを強化してしまうのではないか、と思う。
観光客と地元住民の二項対立って、観光客上位の様式なのではないか、とも思う
観光客はきっと、「その地方ならではのもの」を求めて訪れ、地元住民はその期待に応えるためのサービスを提供する。
そこが巡り巡って、本来の「伝統」とはなんだか分からなくなる。
そんなことを考えると、観光って支配様式だなぁと思う。
見る人、見られる人。
観光客は観光地を対象化する。
観光客の楽しみは、すでにある「感動」を追体験すること。
その「感動」は、自然発生的なものではなく、観光客の視線を内面化し、作られたものであること。
そして観光客の「感動」は、決してそれぞれの感性によるものではなく、このような観光地化のプロセスを経て作られたものであるということ。
これを踏まえると、今回の旅での「感動」は、地方都市に生きる人々の姿だったかもしれない。
かつて私も地方都市の一住民だったのに、今や地方の住民を眼差している。
だから、これで終わりにしたくない。
その場限りの「感動」はいやだ。
というわけで、その土地に関して複数の角度から深める月間にする。
地方創生、文化人類学、歴史学…いろんなキーワードで検索をかけよう。
そして、どのようにして「感動」が作られたのか、知りたい。
次にその場所に訪れるときは、ガイドブックの「感動」をなぞる一観光客から脱出したいな。
すでにある文献を読めば、その分バイアスはかかるかもしれない。
だから、そこに生きる人の話を聞きたいんだけど、どうすればいいのかなぁ、なんてぼんやり考えたりした。