Naegi

逍遥

内なるマッチョな価値観と向き合う

Z世代はhustle cultureに抗う傾向があるらしい。

いわゆる、副業ガンガンして金を稼ぐぞ!みたいな生き方に対してわりと否定的である、とのこと。たしかに利益の最大化を目指すならば、hustleなメンタリティは必要なのであるが、その反面、蝕まれメンタルヘルスを思えばhustleに染まり上がれないだろう。

 

わたしの立場を問われれば、それはもう、hustleな価値観が無理で、「圧倒的成長!」なる文言を言われれば尻込みしてしまう。それはマッチョで排他的なコミュニティのなかで言われることであろう。健康で、体力があり、メンタルがタフな人間しか生き残れない世界線を思えば、圧倒的成長を目指す環境に身を置きたいと思えない。

 

とはいうものの、わたしにもマッチョな価値観は内在しており、ひどく困惑する。冷静に過去を振り返れば、負けず嫌いと完璧主義ゆえにストイックに努力してしまう自分もいる。「しまう」と語るのは、わたし自身、この気質に困っているから。上を目指しすぎて疲弊してしまうこと多数。受験期のわたしの状況を思えば、この気質はひどくマイナスに作用してしまうこともある。

 

一般的に見れば、向上心は社会的に良しとされるものであろう。それはそうで、やはり生きるとしても何かしらの成長がないとつまらないし、何よりも組織において、成長しようという気概はプラスに働く。これが度を越せば搾取という言葉が冠せられるのだろうが、上手い関係性であれば、win-winの関係のもと、楽しく働き、組織によい影響を与えられるのだと思う。

 

その意味で、わたしの負けず嫌いはたぶん、就職活動において美点として作用したのだと思うし、努力家なところが良いと言われたこともある。ただし、長い目で見れば、向上心だけではどうにもならない問題がある。たとえば縁とか運命とか、そういう言葉で語られる物事。わたしは必死に必死に戦ってしまい、敗北してしまう。芦田愛菜さんが言っていたように、自分は目的地に辿り着くための手段を選んでいるにすぎないのだ、と言い聞かれば落ち着くのだろうが、その心構えにもある種の諦念が必要なのであろう。

 

諦念と負けず嫌いは非常に相性が悪い。わたしも20数年生きてきて、ようやく身を任せないといけないことがあると気付いた。というより、いままで無駄に努力した結果、余計に負担が肥大化してしまったとかそんなことばかりである。

 

肩の力を抜くのは容易いことではない。人に言うのはたやすい。尊敬できるわたし友人たちを思えば、努力家な人たちだらけである…努力の天才とも言うべきか。それでも、やはりメンタルが心配になってしまうので、「もっと気楽になりなよ〜」なんて無粋な助言をしてしまう。いや、それを言うなら自分に向けてでしょう、ということである。

 

マッチョな価値観いやだよね〜努力努力!圧倒的成長!とか無理〜とか言いつつ、自分のなかにも負けず嫌いなところがあり、努力の加減がわからず、自分に対して無理難題を突きつけることが多い。この辺りを調整しなければ、社会人になって悩み事をたくさん持つことになるだろう。そのあたりを、うまく楽器の弦のように張り方をうまく調整できればいいのかもしれない。チューニングは大切なのだ。