Twitterで日々の微妙な心の変化を書き記したら、心がスッキリした。私は書くことで癒しを得ているのだという確信を得た。論文とは違う。論文は書けないままだが、資料をしっかり読まないと書けない。その類の書き物も嫌いではないが、セラピー同等の効果を得るのは、エッセイを書くことほかならないのだ。
最近は注意散漫で、本当に自分がやらかしたのかと信じられないことをたくさんしでかしている。貴重品を紛失した。(といっても、落としても致命的な傷にならないもの、個人情報は含まれない)幸い、落とした場所にそのまま置いてあったので、日本の治安の良さに感謝した。フワちゃんの気持ちがわかる。フワちゃんが新潟の路上にパソコンを放置するくだりがとても好きだ。考えすぎに対する処方箋がフワちゃんだったりする。存在に感謝。推しに救われる人の気持ちを追体験する。
胃が痛かったり、歯軋りで歯が痛んでいたりとシグナルはたくさん出ていた。このまま論文ハッスルモードに入れば、心は壊れてしまうだろう。わたしは、次から次へと話が進むわけではない書き手であることを知っている。エッセイは別だが。
こんな状況を打破すべく、映画を観ようと思った。
内容を調べたら、いまの状態で見るべき映画ではないことがわかったので、諦める。私は動画の形態をとった視覚芸術が苦手だ。特に心が穏やかになれないタイプの物語は一切受け付けない。それゆえ、みんなが好きなアニメや映画を見たことがない。文学系の人間としてどうかと思う態度だが、仕方ない。遠足の道中でバトル系の映画を見せられた時、耳を覆って寝たふりをした。文字なら大丈夫だが、映像で攻められるとダメだ。戦争文学は読めるが、戦争映画は観られない。
今日は夏至らしい。冬は日照時間が短いから、憂鬱な気分になりやすいけれど、今は一体…?梅雨だから?ぬかるみにハマったような気分で日々を過ごす。ラップトップに向かえど論文が書けない。ここ数ヶ月就活ばかりしていて調査をサボっていたツケが回ってきたようだ。
日食なつこの「水流のロック」の歌詞を反芻する。
「挑みもしないよ泥濘のさなか 僕らの尾ひれ胸びれは逃げるためだけに生えたわけじゃない」
たぶん、臆病になり過ぎている。この歌詞が刺さって仕方ない。置かれた状況を形容するならば泥濘という言葉が適切だろう。
熱心な後輩に囲まれる一方で、良くも悪くも学生生活を終えることにしたがゆえに、限界を感じている。修士論文がもはやタスクとなってしまった。あれだけ夢見た研究生活だが、来年のキャリアのためのものだと考えれば、単なるタスクと化してしまう。見事に逆転したことを自覚しているのだが、人間吊るされたパンに食らいつきたいもので、来年からの暮らしに思いを馳せてしまう。
故郷と同じ地方に戻ることに大してどう思う?
期待と安堵、不安。
もちろん、嬉しい気持ちが多いが、故郷に良い思い出は少ない。どこまでも続く平野。ローカルスーパー。良くも悪くも郷土愛の薄い地域。出身地に対する愛情が少ない人間は多い気がする。暮らしは続く。一度断絶した記憶が、再度動き出す。
なんというか、いまの学生生活はちょっぴり孤独なのだ。年下ばかりの大学で生活を重ねることに飽きたしまった。年下、というよりは研究歴で言い表したほうがいいかもしれない。はっとするほど優秀な人は別の大学に移ったし、同世代の仲の良い友人たちの多くは別の地方に行ってしまった。わたしが来年引っ越す地域でもある。だから、来年の暮らしに思いを馳せてしまうのも無理もない。親友と毎月会えるかもしれない。来年になれば、たくさん同期と遊べるかもしれない。仕事で辛い思いをしつつ、たくさん刺激を得られるかもしれない。
私が内発的な動機から、研究を進められればこの上ない幸せであるのかもしれない。が、今はその時期ではないのかもしれない。よく、自分軸で生きなさいとか言われるけど、本当にそんなことができる人はごく僅かだと思う。外からの刺激にうまく対応しつつ、私たちの生活は続く。
別に棚から牡丹餅を希求しているわけではない。が、もっと心を通わすような経験をしたいのだ。大学一年生のころに戻りたいとは思わないが、あの時の学生生活といまの研究生活は同じ地平にあるとは思えない。
いまのわたしに足りないもの、それは笑いである。
爆笑する時間が少ない。わたしはそれなりに面白さに対してストイックなのだが、最近の心はオチのない話ばかりだ。だからどうした?と自問自答する。
巣立つ準備をしつつ、地に足つけて論文が書ければとりあえず及第点には達するだろう。内発的な何かを希求して、学生生活を終えたい。少なくとも、面白いことをじっと待つような姿勢は避けたいのだ。
SNSを振り返る。私の発信は誰に向けたものだろう?と思う。何者でもなく、私に対する手紙なのだろうなというのがわかる。昨日メンタルが低空飛行して眠れなかったのに、ツイートを見た途端に眠りについた。過去のわたしからの手紙を読む。確かに生きて、考えた記録。どんな美辞麗句にも勝てない勇気をもらった。その意味でも、わたしは文を綴る必要があるのだろう