Twitterで以下のスピーチを見つけ、読んだ。
むかし、ターミナル駅付近の書店で見つけたことを思い出した。
私が大学院で学ぶ意義を思い出す一方で、この態度を根詰めると厭世的になってしまうとも自覚した。事実、作者は自殺している。
魚が水を自覚すること。これがリベラルアーツを学ぶことの意義である、という。
指導教員にも同じようなことを言われた。「学ぶことは、プログラムされたものを書き換えることです。敷かれたレールを敷きなおすことです」。そして、優れた論文は「みんながなんとなく思っていたことを説得力をもって説明することに成功している」という。
その一方で、すでにプログラムされていたことを自覚し、意識的に書き換えることは多くのエネルギーを消費してしまう。エンターキーを叩けば表示されるものを、根本的に書き換えるのである。現代は退屈に溢れていて、退屈さの根源をたどると実存的危機に立たされてしまう。その退屈しのぎのために、あらゆる欲求に奉仕する産業が存在するというわけだ。
こうした議論を踏まえると、自分みたいなものは厄介で、自分とうまく付き合うことが人生における一番大切な課題なのかもしれない、と思った。
「これは水です」のスピーチでは、自己中心的な(これはセルフィッシュ的な意味ではなく、本当に自分を「中心」に据える考えである)デフォルトの設定を変えることの意義が解かれている。それは、すなわちオーナーとしての自己(往々にして厄介な存在である)をどう手なづけるか?という課題が示唆される。
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2ヶ月前のドラフトを改めて更新。
就活時、とても迷っていたので、この類の記事をたくさん書いていたな。それにしても、孤独の問題は、今もなお頭を悩ませている。はやくわたしは研究に没頭すべきなのかもしれない。
人を愛おしく思う気持ちは、痛みになりうる。
一対一ではなく、エコシステムの中に身を埋めるのが最適解なのかもしれない、と結論を見出してしまった。6年間の学生時代、最も向き合った主題が孤独であり、結論がここになるのは、なんだか惜しい気もする。愛について語る文法を持てなかった。どちらかといえば、懐疑的な立場から愛を語る。俗に言えば、これが「こじらせ」なのかもしれないが、まぁ自立という側面ではいちばん健やかなのかもしれない。一般論と距離を置きたいので、主要なソーシャルメディアをまたもや消してしまった。まぁ、わたしは良くも悪くも他者の影響を受けやすいので、こうしたことの繰り返しである。
それでも、わたしは希望を忘れたくない。隙間に埋もれている光を見つけたい、と思う。