Naegi

逍遥

描き直す 初夏2024

日常を凪に変えるための努力。骨の折れる作業だということ、私は知りませんでした。大学時代に際限なく考えていたことは、結果的に私の人生を定めることになったけれど、日々の労働とは両立しえない。具体的に述べるならば、能書、名誉、アイデンティティ、未来に関することを日常の思考に持ち越すのは、やめようと思った。

アイデンティティに関することは、無理やり思考するのではなく、降ってくるのだ、と最近気づいた。エピファニーなのである。)

 

組織に入ると、必然的に自らの能力を常に問うことになるけれど、だからといって自らの能力に関する思考を日常的に行う必要はない。必要なのは受け止める力、許す力なのだ。どれほど自分に力が足りなくても、ひとまずそれを抱き止める。なかなか難しいけれど、人と比べたり、失望したりしている余裕なんかないのだ。

 

上昇志向は実のところ、自然発生的なものであるならば追い風になってくれるのだが、無理やり作り出されたものだと、どこかで破綻するのだと思う。誰かに認められたい。勝ちたい。そんな欲求に基づいた行動は、どこかで綻んでしまう。これはパンデミックを通して私が実感したことである。

 

仲の良い人たちと話していても、誰が優秀だとか、自分がいかに価値のない人間か、とかそういう話に落ち着くことが多い。わたしも話題をこのようなフローで展開することが多いのだけど、別に私は一定の尺度で他者も自己も評価する必要もないし、権利もないのだ。ただ、とても到達しやすい場所なのだと思う。このような類の話って共感を呼びやすいし、同じコンテクストに皆を置くことができる。そんなことで芽生える紐帯がなかなか強靭であることも知っているが、それに甘んじてはいけないことも知っている。

 

綺麗事でまとまらない日常を、どのように描き出すか(語る、よりも描く、がしっくりくる。)という話は、人生の舵取りにも繋がるのである。

美術展に行ったり、建物を抜け出して逍遥するのは、生活の描写の問題に関わっている。枝葉に見えて根幹なのである。

 

少し前に話題になった某大文学部(文学研究科)の祝辞を思い出す。人生における人文学の効用を語ったものである。働き始めて2ヶ月だが、人文学の効用を感じている。これほど早く実感すると思わなかった。

 

この祝辞は、一部分を抜き取ると誤解を産んでしまうように思う。人文学は即効性や実用性はないかもしれないが人生に対して深い示唆を与えてくれる、という主張である。これが翻って、文学は人生を豊かにするものだとか、教養は必要だとか云々の議論になる。コロナ禍に自宅待機には文学が必要だとか、そんなことが語られていたが、別に文学とか、もっと広くいえば人文学は自動的に、人生を彩るものではないと思う。

 

その間には幾重の葛藤があり、易きに流されそうになりつつも格闘した痕跡があり、やっと描出方法を見出すのではないかと思う。これは、本当に努力が必要なことなのだ。

 

ふと気を抜いたら、私の肩書きとか能力とか、将来のこととかを一生懸命考えてしまう。考えるあまりに、迫り来る車に気づかず、手負の人間となってしまう。そんな感じだ。正直綱渡だ。楽しく生きているが、真顔になりそうになる。時には泣きそうになる。でも、無理やり笑顔を作ろうとも思わない。視点を「私」の内側から外側せとちょこっとずらすことで、あらゆる刺激に泰然として反応していきたい。波に飲み込まれないように、そして取り残されないように。しなやかさを得るためには、少しずらして、描き直しをしなければならないのだ!