微睡む瞬間はあるはずのない展開が立ち現れていて、「これは夢だな」という冷静な声を最後に夢の世界に入る。
今日の夢は内容が多層に重なっていて、起床後の理解が追いつかなかった。
ソテツの林の中で授業を展開する。青空教室のような空間で私は教師だった。
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気づいたら3時だった。
最近の私は頻繁に3時に目覚める。
鼻が詰まっていたり、脱水症状に陥っているわけでもなく、酒を飲んでいるわけでもない、
なぜか3時に途中覚醒し、再び眠りにつく。
再び寝ると、叔父(字が示すように母方のオジである)と父と、亡くなった祖父が出てきた。
場所は旅館。なぜか祖父や叔父を含んだ家族で、旅行に来ていてようだ。
気づいたら私の部屋にいた。
父親のiPhoneが机に置かれていた。
忘れていると告げたかったのに、父親はiPhoneを忘れている。
届くはずものないのに、忘れているよ!とありったけの大声で叫ぶ。
当然ながら戻ってくるはずかない。
仕方がないので、街に出た。
iPhoneを渡すよりも、勉強がしたかったのでレストランに入る。学生証を提示すれば無料で席を使用できるとのことだった。
高級レストランの席で勉強する。
その背徳感に駆られ、近くのカレー屋に入る。
仲の良い後輩を呼び、一緒にカレーを食べる。
気づけば生まれた街に戻っていた。
さらに北上し、実家を目指した。徒歩で。
当然ながら到着しない。
よく使うバスの路線が、家まで私をつれて行ってくれるようだった。
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夢のなかは色彩がないとか、そんな話を聞いたことがあるが私の夢にはたぶん色彩がある。
サイケデリックな夢。
Original Love の『接吻』に、「痩せた色のない夢を見る」という歌詞がある。艶。
現実は、やけに極彩色の色を見るのです。
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ここまできて私は目を覚ました。
昨日よりも多くの時間を睡眠に費やしていたようだ。
古今東西の思想家は夢について言及しているし、文学においても夢は深層心理の現れだったり、理想を投影させる場所だったりと、特定の舞台装置としての役割を果たす。
私の場合、夢は何になるのだろう。
収束することのない、思考の流れを整理するものなのであるのだろうか。
夢の中での、「意識の流れ」を記述したら、どんなものになるのだろうか。
寝ぼけ眼の私に夢を語らせるのも悪くないかもしれない。