ドジっ子⭐︎と形容詞しないと救いようがないくらいドジなのに、「かっこよくて、冷静で、論理的」人だと言われた。身に余る言葉。こんな素敵な言葉を送ってくれた方には感謝したい。ありがとう。
でも、実際の私はまったくそうではない。
まず、かっこいいに関して。
何をもって「かっこいい」と言われたのか判然としないが、最近はお腹の底から声を出すように心がけている。そのせいで、なにかと強い人だも思われるらしい。これが吉と出るか、凶と出るか、長い目で見なければわからない。
…少なくとも、私は自分について「かっこいい」という形容詞をつけたことはない。
冷静という言葉に関して。
わたしはまったく冷静ではなく感情的な人間である。嫌なことがあれば、すぐ態度に出る。
教習所の適性検査はマイナス評価だった。
論理的な部分について。
さすがに論文書くときは論理性に気をつけるが、日常生活において私の生き方がロジックに偏ってるかといえば、全くそうではない。
友人に聞けば、あなたは感情で判断している方だと思うといわれるだろう。
顔を真っ赤にして反論するような文。
セルフイメージと他者からのイメージって一致しないもんだよね。
研究においても、こんな感じのことをやっている。
主体としての「自己」と、対称化される「自己」。
時に、他者からの眼差しを内面化して自己を記述する。
就職活動では、徹底的な自分の分析が求められるが、「他者から見た自分」と「自分から見た自分」は確実に分けた方がいいと言いたい。が、時には両者を分けることが難しい。他者の存在が前提となって、行動が決定される。そこから導き出された自分の性格は、果たして自分によって規定されるものだといえるのか。否か。
じっくり考えても答えが出ないことも。
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余裕がないと、自分に対しても他者に対しても優しくできない。
迫る締め切りを前に、毎日ラップトップを前に唸りながら、論文を絞り出す。
なにかと私は余裕のなさを全面に出してしまうので、近くに誰か知り合いがいたとしても黙ってパソコンで作業していた。
なにか気の利いた一言を言えばよかったのだが、そんな余裕はない。
あとから反省する。
もっと空気を和ませればよかった、と。
でもそこでもう一つ考える。
これは締め切りを前にした行動であり、常に聖人君子のように振る舞うことは不可能なのではないか、と。
ここでのジレンマが「いい先輩」だと思われたいというじぶん欲求に起因するのではないか。
他者から見た自己像をまーた投影しているよ、とツッコミを入れる。
いい人に見られたい。そんな思いはよくあることだろうが、それも度を越すと疲弊してしまう。
業績を残そうと必死になっている今、新たに就職活動も飛び込んできた。常に誰かのことを考えて行動するのは難しいかもしれない。
偽善的なセルフイメージを捨てて、自分らしく生きる時なのかもしれないなと思う。