コロナ騒動もあって今年の報道は例年よりも
少なかったかもしれない、それでいても
9という月日が流れ、かつて小学生だった世代も大学生になったり、社会人になったりと震災から時が流れたことを報じるものも多かった。
私は東北出身ではないものの、比較的東北には近い地域に住んでいたため震災そのものは経験したと言えるだろう。
大きな揺れが襲った後の気味の悪い空模様、
非常階段をぞろぞろと歩いた光景は今でも思い起こせる。その日見た夢も思い起こせる。
スーパーに行くにしても、ピアノの練習をしているときでもいつ余震が起きるのか分からず、ずっと気を張っていた。
そして放射能という見えないものへの恐怖はたしかにあったし、計画停電や給食の停止など生活への
影響もそれなりにあったと思う。
当時、それなりに揺れの大きかった場所に赴任していた父の変わりようもとても印象に残っている。冗談の通じない父。乾パンを食べながら家に1人、祖母と電話したときには涙が止まらなかったという。
やっと家族のいる家に戻ってきたときはすっかり弱っていた。
放射能の懸念から学校は休校となり、することもないのでDSでゲームをしたものの、ただ事ではない状況下ではゲームにすら集中できなかった。
計画停電の時は、居間に布団を持ってきた。3月とはいえ、まだ冬の寒さは健在で寒さとの戦いだった。唯一携帯電話のあかりが希望だった。電気が復活した時の嬉しさも、未だに覚えている。
そして、3月も終わり4月には無事学校も再開。
給食も部分的に再開した。
5月にもなると震災のことも徐々に忘れていった。
故郷の街を覆っていた屋根上のブルーシートは姿を消していった。
その年にあった修学旅行も無事開催された。(行先は鎌倉。宿泊した旅館は海に隣接しており、保護者の反対の声も強かったという。よく開催したな笑)
そのあとも毎日は続く。
3月11日は校内放送が入り、黙祷を捧げる日となった。各々がその日の記憶を振り返り、そして祈る日。
とはいえ、その日限りのことだった。
未曾有の災害を経験したとはいえ、その時だけの記憶に留まり、そのあとの生活は震災は報道で目にするほどの影響にとどまった。
高校生の頃、Twitter上で同世代の子達が震災への想いを発信しているのを見て悶々としたの思い出す。
震災は自分語りのものじゃねえ、という風潮があったし、事実「当時私は小学五年生で……」から始まる類のツイートは忌み嫌われていた。
私の住む地域は、被災地ではないが被害はそれなりに受けた場所ということもあり、命に関わるほどのことでは無いが、大きな爪痕を残した出来事として捉えられていることが原因なのだろう。
とにかく私の所属していたコミュニティでは懐古ツイートVSアンチ自分語りの構図が繰り広げられていた。
確かに、様々な意見はあるだろう。
近しい人の命を落とした人のドキュメンタリーを目にすると、震災という出来事を軽々しく捉えられるものではないとは思うし、ただノスタルジーに浸るためのトリガーとして震災を取り扱うのは慎みたいとも思う。
ただ、私たちは被災状況が重かろうと軽かろうと
その記憶を残す義務はあるのではないか?
あの社会不安を経験した話、何らかの形で表現する自由はあるし、その必要性もある。
本記事の冒頭も、ある種の自分語りなのだろうが、
この記憶は形として残しておきたかったので、ブログとして書いた。
確かに私は被災者ではないし、震災によって生活は大きく変わったわけではなかった。でも、地震を記憶している者として、残す。
ー
我々の世代は震災の記憶を残す最も若い世代だとも言われる。小学五年生は既に分別もついた、多感な年頃である。
そんな時に震災を経験したこの世代が語り部として
活動しているとのニュースを見た。
もちろん、被災地の語り部は複雑な感情を抱えているし、簡単に捉えられる話ではないのだろうけど、確実にここ数年で語られなかったものが語られるようになったと感じる。目をそらすことなくその語りを聞くこと、受け継ぐこと、それが3月11日にすることなのではないのだろうか、、そして検索は力になる、、
今回はここまで。
考えは纏まらないが震災は簡単に図式化できるものでは無いのでこれからもこの話について書いていきたいと思う。
震災後の社会状況と、今の危機的状況はオーバーラップしているので、尚更。
寝ます。